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👑人物
👑即位の経緯
チャールズ2世は処刑されたチャールズ1世の息子で、王政復古期ステュアート朝のイングランド、スコットランド、アイルランドの王です。
オリバー・クロムウェルの死と、リチャード・クロムウェルの失脚に続いて護国卿政権が崩壊して、再構成された議会によってチャールズ2世がイングランド国王として迎え入れられました。
👑 チャールズ2世の魅力と功績
🌞人気の秘密 王政復古と明るい宮廷文化
クロムウェルによる共和政を終え、1660年に王政が復古すると、「楽しげな王政の再来」として熱狂的に歓迎されました。その人気は「Merry Monarch(陽気な王様)」という渾名まであるほどでした。
戯曲や詩、劇場が復活し、「復古時代(Restoration)」の文化が華開き、チャールズ2世は芸術と学問のパトロンとなりました。
🧪科学と啓蒙の支持者
ホッブズ、ロバート・ボイル、フックなどを支援し、1662年にはロイヤル・ソサエティ(科学協会)設立を後押しします。王自身も化学実験や天文学に深く関心を持ち、自前の実験室を持つほどの博学ぶりだったとされています。
🎭️巧みな政治操作と政教関係
特に勇猛でもなく、政治的にも大したことをしていない、人気者の王様というイメージで語られることが多いのですが、実はそうでもありません。例えば、宗教的寛容性を尊重しつつ、その裏で国教会重視の現実政治に折り合いをつけながら統治していく手腕は大したものでした。また、妹婿ジェームズ2世が王位継承者になった際の「排除危機(Exclusion Crisis)」でも、慎重に王位維持に動いたことが歴史的に評価されています。意外としたたかなところのある王でした。
🌿 一方で抱えていた問題
🍾派手な私生活と財政難
多くの愛妾や非嫡出子を持ち、その浪費ぶりは「祝宴とスキャンダルの王」と揶揄されるほどでした。その結果、国庫の赤字を招くほどでした。しかし、国民にはどこか豪快に受け止められた面もあります。
📜政治批判の流れ
政教や財政面での対立はその後のウィッグ党との対立構造となりまして。そして、王による議会解散と専制傾向への批判も高まりました。
👑チャールズ2世とキャサリン・オブ・ブラガンザ
🏰 結婚の背景(1662年)
ポルトガルとイングランドの政治的同盟のための結婚でした。持参品には莫大な財宝・ボンベイとタンジールの譲渡・貿易特権などが含まれ、極めて重要な国際婚姻でした。
💔 愛は冷めていた?けれど……
チャールズ2世には数多くの愛妾(バーバラ・パーマー、ネル・グウィンなど)がいて、結婚後もその関係は続いていました。キャサリンはこれに大きな衝撃を受け、最初の数年は孤独で涙に暮れる日々だったとされています。しかし、次第に王との関係は安定し、王妃としての品格と信頼を勝ち取っていきます。また、チャールズもキャサリンをないがしろにしたりすることはなく、その尊厳を守ろうとしていました。それに多くの愛人や子供がいたとしても、「帰る場所はキャサリン」だったとする見方も根強いです。彼女の存在が「揺るぎない中軸」として、王の心にあったのではないかと考えられている。
🛡️ キャサリンを「守った」チャールズ
ポピッシュ・プロット事件(1678年)では、キャサリンに対して毒殺未遂の嫌疑がかけられました。多くの王妃がこのような噂で退位や離縁に追い込まれる中、チャールズ2世は毅然として彼女を擁護し続けました。
チャールズが「王妃を退けることはない」と議会にも明言したことから、キャサリンの地位は守られたまま死別まで婚姻関係が続きました。この対応からも、単なる政治的な体面ではなく、キャサリンに対する「王としての誠意と深い情」のようなものがにじんできます。
🎨 宮廷生活のエピソード
キャサリンは大量の紅茶とともにティータイム文化を宮廷に持ち込み、日常化させた立役者です。チャールズは形式的にそれに付き合うこともありましたが、残念ながら甘党ではなかったようです。
また、キャサリンのために宮廷内に「ポルトガル風のチャペル」を設置したり、病弱なキャサリンのために王自ら薬湯を手配したという記録もあります。
🧸くまの一言
でも、結局のところチャールズは「大前提として」キャサリンを愛していたのだと思います。どんなに他の女性と浮名を流したり、子供を作ったりしていても、自分の帰るところはキャサリンのところ、というような気持ちがあったのではないかなと。絶対的な相手がいてこその浮気心なわけで、そうでなければただの放蕩王でしかないことになってしまいます。でもそれで数人はごまかせても、果たして国民の大多数をごまかすことはできるでしょうか。
それに、そうでなければポピッシュ・プロットで徹頭徹尾守り抜くということはできないと思います。まぁ、勝手な男であることは間違いないけれど、時代と後継ぎを作らなければいけない、という事情も含めれば、「仕方なかった」という言い訳くらいはできるのではないでしょうか。
キャサリンも時間とともに「自分が1番であることはゆるぎない」という確信を持ったのではないかと。だから最後までしっかりと構えていられたのだと思います。それに、そうでなければチャールズの崩御の直後に帰国してもよかったわけですしね。
最後に、下に集めたリンク集は、チャールズ2世を「放蕩王」ではなく、 「文化と寛容の復古王」として再評価するうえで有益な出発点になるものだと思います。でも「放蕩者」だったのは間違いないと思いますけどね。
🔗リンク
キャサリン・オブ・ブラガンザ:『紅茶用語辞典』ポピッシュ・プロット事件についてなどがまとめられています。
✅ 総合的な伝記・歴史背景
Wikipedia
Encyclopædia Britannica
British Heritage Travel
BBC History
🎭 宮廷文化・復古時代の人物像
The Restoration (1660–1685)(Historic UK)
Charles II and Restoration Culture(The New Yorker記事)
Philippa Gregory – Blog Commentary on Charles II
⚖️ 政治・宗教政策・ポピッシュ・プロット関連
Exclusion Crisis(Wikipedia)
Popish Plot(Wikipedia)
Royal Society(王立協会設立に関与)
🧸くまのよけいな一言
リンク集の『Charles II and Restoration Culture(The New Yorker記事)』のスラッグ(ホームページアドレスの最後の部分)を見て、くまは思わず吹き出してしまいました。
『a-gambling-man』
なんとも直球にもほどがある名付け方です。でも、このスラッグにはなんだかチャールズ2世の全部が詰まっている気もします。
- 政治も
- 宗教も
- 愛妾も
- 王妃との関係さえも
すべてが「賭け」のように揺れていたけれど、最期まで「陽」を演じきった男。
☀️ “A Gambling Man” — 彼の人生そのものが、王として、男としての一世一代の賭けだったのかもしれません。