キャサリン・オブ・ブラガンザ

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キャサリン・オブ・ブラガンザ
キャサリン・オブ・ブラガンザ

👑名前について

キャサリン・オブ・ブラガンザ(Catherine of Braganza/1638-1705)はチャールズ2世(Charles II) のもとに嫁いできたポルトガルの王女です。ポルトガル王ジョアン4世の娘で、本名はカタリナ・エンリケタ・デ・ブラガンサ(Catarina Henriqueta de Bragança)です。これがポルトガル語のフルネームで「ブラガンサ家のカタリナ・エンリケタ」という意味です。「de Bragança」は王家の家名です。キャサリン・オブ・ブラガンザというのは「ブランサンガ家のキャサリン」という称号のような呼び名です。


✝️宮廷での陰謀とカトリックへの反感

キャサリンがカトリック信者であることから、英国正教会が国教のイギリスで反感を持たれ、陰謀の対象になっていました。

🕵️ ポピッシュ・プロット(Popish Plot)

ポピッシュ・プロットとは1678年、元神学生の ティタス・オーツ(Titus Oates) が、カトリック勢力によるチャールズ2世暗殺計画を捏造し、証言で世論を煽った事件です。実際には証拠はなにもなく、虚構の「陰謀」でした。しかし当時の人々に広く信じられ、大勢の無実のカトリック関係者が処刑されました。

⚖️ 処刑されたカトリック信者たち

処刑されたのはカトリック信者で王妃メアリの元秘書であったエドワード・コールマンがオーツの証言をもとに有罪判決で絞首刑になりました。

また、イエズス会士のウィリアム・アイアランドは大逆罪(High Treason)として有罪になりました。他には、カトリック信者のジョン・グローブスが、さらに宣教師のトマス・ピックリングも陰謀に加担したとされ有罪になりました。そして弁護士のリチャード・ラングホーンもイエズス会との関係で疑いをかけられ処刑されました。

これらに証拠はなく、すべてオーツの証言のみに基づいた判決でした。特にエドワード・コールマン以外の4人は絞首・内臓抉り・四つ裂き刑という苛烈な処刑をされました。オーツの証言だけで最終的に20名以上が処刑され、さらに多くが投獄・財産没収・追放などの被害を受けました。

💀 「絞首・内臓抉り・四つ裂き刑」とは?

当時のイングランドにおける大逆罪に対する最重刑です。

  1. 絞首刑で意識を奪う(死なない程度)
  2. まだ生きているうちに内臓を抉り出す
  3. その後、四つ裂きにする
  4. 頭部と四肢は都市に晒されることも

というものでした。このような苛酷な刑罰が行われたのは、王政に対する“神聖不可侵”の思想が根底にあったためです。

👑 キャサリン・オブ・ブラガンザへの疑惑

オーツは、キャサリン自身が王の主治医にチャールズ2世を毒殺させようとしたと主張しました。さらに、主治医の ジョージ・ワケマン(Sir George Wakeman) が王に毒を盛る計画に関与していたとも指摘されました。

🛡 チャールズ2世による王妃の擁護

チャールズ2世は、妻を心から信頼しており、これらの主張を「馬鹿げた虚偽」と断じました。実際、ワケマンに対する起訴は後に却下され、無罪となったことで疑惑が晴れました。結局、キャサリンは潔白とされ、疑惑はほどなく消滅しました。

🎭 ティタス・オーツ(Titus Oates)のその後

オーツは一時はヒーロー扱いされ、年金や地位も与えられました。しかしオーツの証言の矛盾や、無実の人々が次々と処刑されたことが明らかになると風向きが変わってきます。チャールズ2世の死後、ジェームズ2世(カトリック)が即位すると、オーツは逮捕され、名誉毀損と偽証で終身刑となりました。終身刑の内容は非常に苛酷で「毎年2回の鞭打ちの刑」と「終身投獄」というものでした。のちにウィリアム3世の治世下で恩赦・釈放されますが、再び大きな地位を得ることはありませんでした。


👑 名誉革命(Glorious Revolution)とキャサリン・オブ・ブラガンザ

📜 革命の概要(1688年)

1685年にチャールズ2世が崩御し弟のジェームズ2世(カトリック)が即位しました。しかし、ジェームズ2世のカトリック政策にイングランド議会・国教徒が反発します。そして、1688年にオランダ総督ウィリアム(後のウィリアム3世)とメアリーがイングランドへ上陸します。すると、ジェームズ2世は無血で退位(亡命)し、ウィリアムとメアリーが新国王・女王に即位しました。これが「名誉革命」と呼ばれる政権交代です。

🫖革命の中キャサリン・オブ・ブラガンザは

革命当時、キャサリンはイングランド宮廷にいましたが政治的な発言力はほとんどありませんでした。夫を失い、子もいなかったため、王朝の実権とは無縁だったのです。新たな王家(ウィリアム&メアリー)からは疎外される立場になります。ただし、ポルトガルとの関係や王妃としての威厳は保たれていました。

周囲のカトリック貴族たちは次々と国外逃亡あるいは追放されました。カトリック信者であった義弟のジェームズ2世も即位後わずか数年で亡命します。その一方で、キャサリンは動じることなくロンドンにとどまっていました。

🧸くまの一言

キャサリンのこの態度を言い表すとすれば、

新しい王がやってきた。旧き王は逃げ去った。
だが、かつて王妃であった者は、革命の嵐の中「静かに紅茶を淹れ続けていた」。

という感じでしょうか。この姿勢は、ただの「政治的距離感」ではなく、「王妃としての気品」と「誇り高きポルトガルの王女としての胆力」だったのではないかとくまには思えます。


👑そのほかの出来事など

流産と継嗣問題

3度の流産を経験し、子を授かることがありませんでした。一方で、王は愛人たちとの間に多数の子を設けていましたが、キャサリンに対する尊重を常に示していたことも知られています。

文化嗜好と宮廷趣味の影響

宮廷での仮面舞踏会(マスケード)や園遊び・狩猟・カード・釣りなどを好んだとされています。また、フレミッシュの画家 Jacob Huysmans による肖像画(1670年)で聖カタリナに扮したことが、宮廷女性の間で模倣され流行したこともあります。このようにキャサリンは紅茶だけでなく英国文化に大きな影響を与えた人です。

引退後の寡婦生活と隠然たる存在

チャールズ2世崩御後、エドワード・ヒュード伯爵と関係を抱いていたという噂も残りますが公的には婚姻せず、1692年にポルトガルへ帰国します。

ポルトガル王国の代理統治者

チャールズ2世の死後、ポルトガルに戻った後、兄ペドロ2世不在時の代理統治(摂政)を1701年と1704–1705年に務めました。


🫖キャサリン・オブ・ブラガンザと紅茶の関係

イングランドに最初に紅茶をもたらしたのが、キャサリンです。彼女が嫁いだ1662年前後がイングランドにおける紅茶文化の始まりとされています。当時紅茶は大変な高級品で、相当身分が高くなければ手に入れることすらできませんでした。

キャサリンはポルトガルからインドのボンベイ(ムンバイ)や北アフリカのタンジールを持参金としました。そして婚礼用品の一部として同時に大量に持ち込んだのが紅茶でした。

彼女は紅茶を毎日のように飲んでいました。これは当時貿易先進国として繁栄していたポルトガルの王女だったからこそできたことでした。彼女が生活していたサマーセット・ハウスでは、訪問者にこの紅茶が毎日ふるまわれ、人気を呼びました。そこから、イングランドにおける喫茶の習慣が確立していくことになったのです。


🔗リンク

👑総合的情報

☕ 紅茶文化との関係

🔥 ポピッシュ・プロットや名誉革命との関係

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