紅茶の歴史(2)日本と紅茶

目次

4.日本人と紅茶

大黒屋光太夫

日本と紅茶の歴史の始まりは江戸時代の寛政年間にまでさかのぼります。現在の三重県・伊勢の船頭(船長のこと)である大黒屋光太夫が日本人で初めて紅茶を飲んだ人物だと伝わっています。

大黒屋光太夫

光太夫は伊勢から江戸に向かう途中に大嵐に遭い、ロシアとアラスカの間にあるアムチトカ島に漂着します。アムチトカ島から脱出した光太夫は紆余曲折を経てロシアのイルクーツクにたどり着きます。

当時のロシアでは船長は上流階級であり、日本は黄金の豊富な国と思われていました。光太夫はイルクーツクで日本に興味を抱いていた著名な博物学者でペテルブルグ科学アカデミー会員でもあるキリル・ラクスマンに出会います。その後サンクトペテルブルクにキリルらと共に向かい、キリルらの尽力により、寛政3年5月28日(一説には6月28日) にロシア皇帝の離宮があるツァールスコエ・セローで大帝(ヴェリーカヤ)の異名を持つ女帝エカチェリーナⅡ世に謁見し、帰国を許されます。

エカチェリーナⅡ世

帰国するまでの間、光太夫はロシア皇太子や貴族、政府高官から大変優遇され、当時のロシア文化、社会を体験しています。また、エカチェリーナⅡ世のお召しで日本の話を語っています。ペテルブルクを離れる直前の1791年(寛政3年)11月1日に謁見があり、この時に、お茶会に招待され、日本人として初めて、本格的な欧風紅茶(ティー・ウィズ・ミルク)を頂いたといわれています。

光太夫の帰国後の記録には「ロシア人は茶に砂糖とミルクを入れて飲む」といった内容が記されており、光太夫が日本で初めて紅茶を飲んだ人物とされています。そして1983年(昭和58年)に日本紅茶協会は光太夫がエカチェリーナⅡ世のお茶会に招待された日である11月1日を「紅茶の日」と制定しました。

5.国産の紅茶

多田元吉

日本で国産の紅茶の製造が開始されたのは、明治8(1875)年のことです。明治政府による勧業奨励として中国の紅茶製造技術者を招き、熊本県山鹿市で地元の茶葉を使って始まったのが本格的な紅茶製造の最初とされています。

1876(明治9)年に、インドのアッサム地方やダージリン地方、およびセイロン島(現スリランカ)に元幕臣の多田元吉らを派遣し、インド式の紅茶製造現場を視察させました。多田元吉は維新後、静岡県の丸子でお茶の栽培法の改良を進めるなど、熱心な茶畑の開拓をおこなっていた人物です。

多田元吉は1877(明治10)年に帰国しました。インドでの視察の際にアッサム種をはじめとする種子や近代茶業につながった機械のスケッチや図面の入手、栽培、製造、経営法、品種改良等多くの紅茶製造の技術を持ち帰りました。

元吉は高知県香美郡で紅茶の製造者を指導。『紅茶製法纂要(勧農局名義)』、『紅茶説』の翻訳監修等、茶の研究書の著作も多く残しています。

元吉が持ち帰ったアッサム種を日本の品種と掛け合して生まれたのが、日本の紅茶品種第1号「べにほまれ」です。その後、べにほまれとダージリンをかけあわせた「べにふうき」などが誕生し、日本で生まれた紅茶は海外でも高い評価を得、輸出されていきます。

多田元吉

6.紅茶の輸入

1887年にイギリスから100kgの紅茶を輸入したのが日本で最初の紅茶の輸入でした。ヨーロッパ文化への憧れから、原産地の中国からではなく、イギリスから輸入されたのです。紅茶が舶来の文化として、上流社会でもてはやされました。

1906(明治39)年に輸入食材店の老舗である明治屋がイギリスブランドの紅茶(リプトン紅茶イエローラベル)を輸入し販売し始めます。ただし、当時の紅茶は有産階級やエリート階級が嗜む高級品であり、一般の人の手には届かないものでした。

リプトンイエローラベル

7.紅茶の普及

大東亜戦争敗戦後になると、在日外国人用の紅茶輸入枠が認められましたが「紅茶はリプトンのみ」「輸入業者は明治屋限定」などの制限がありました。

しかし、1971(昭和46)年に紅茶の輸入が完全に自由化されたことにより、海外産の紅茶が多く入ってきて、世界中の紅茶が飲み比べられるようになりました。そして紅茶の価格はもはや贅沢品の価格ではなく、一般の人たちも手軽に手にとれるものとなっていきました。

昭和60年代のバブル期にはイギリス紅茶文化の象徴でもあるアフタヌーンティーが流行します。イギリス系ティールームが「シルバーの3段スタンド」を象徴的なものとして高々と掲げ、イギリス製のボーンチャイナのティーセットとともに優雅なティータイムというイメージを提供し、それが流行して行きます。

平成時代に入ると外資系ホテルが次々とオープンし、西洋文化の象徴としてアフタヌーンティーを提供し始めます。この時期に日本におけるアフタヌーンティーの質は大幅に上がっていきます。

8.国産紅茶の復権

1971年に始まった外国産の紅茶の大量流入は同時に日本産の紅茶が価格競争で負けることを意味しました。同時に輸出品としても価格競争に負け、生産数が激減し、一時期は絶滅寸前まで行きました。

しかし、こうした先人たちの功績や残されていた茶木が近年、再注目され、2000(平成12)年頃から日本国内で生産される国産紅茶が「地紅茶」「和紅茶」等として復活し始めました。当然のこととして、こうした国産紅茶の生産者は「ここから和紅茶の新しい歴史が始まる」などといっていますが、現状そこまでの普及はされておらず、国産紅茶が今後どのようになっていくかは楽しみですが、未知数です。