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夏目漱石と森鴎外
夏目漱石の日記
夏目漱石は明治33年9月から35年12月まで2年あまり、ロンドンに留学していました。漱石はロンドン留学中のことを日記として残していますが、誰かに見せることも特に考えず、備忘録的なもので、読んでも大しておもしろいものではありません。しかもその日記も明治34年11月で途切れていて、その後は何も書かれていません。漱石は留学の後半は酷いノイローゼだったと言われているので、日記処ではなかったのかもしれません。どちらにしても、やはりおもしろくないです。少なくてもくまはつまらなかったです。

それに対して森鴎外のドイツ留学日記は最初からあとで発表することを前提に文学者が書いているのだから、文体も整っているし、テンポも良いし、何より読んでいておもしろいです。
漱石と鴎外の留学を比較すると、漱石は33歳の時に、鴎外は23歳の時で、相当幅があるとはいっても明治時代の男性の平均寿命が42.8歳、漱石が留学していた明治30年代では男性の寿命が36歳であったことを考えると、これからの希望に満ちた鴎外と人生の終わりに差しかかった漱石では、留学に対する気構えも、見聞きするものに対する受け止め方も大分違ったものだったのではないかと思います。また、時代背景などを考えるともっとその違いが際立つのですが、そこまで踏み込むとあまりに関係ない話になってしまうのでここまでにします。
鴎外が人見知りしない性格なのに対して漱石が引っ込み思案だったこと、今風に言えば「陽キャでパリピな鴎外」と「陰キャでインドア派の漱石」が同じように外国に一人で、と考えると、こうした性格の違いもかなり影響があったと思います。

さて、紅茶と関係のない話題をずいぶん長く書いてしまいましたが、その漱石の明治34年の日記に次のような一文があります。
「ウチノ女連ハ一日ニ五度食事ヲスル 日本デハ米ツキデモ四ドダ コレニハ驚ク」
漱石が目撃した5回の食事というのは朝、昼、晩の食事に、午前と午後のお茶のことではないかとくまは解釈しています。漱石の下宿の女性たちは午前と午後のお茶の時間にスコーンや軽いパンなどをつまんでいて、それが漱石には食事に見えたのではないかと思うのです。
これは1900年当時にはすでに、イギリスではすべての階級のすべての人たちに「紅茶の時間という文化」が行き渡っていたことを表していると言っても良いと思います。それを日本人の眼から見た形で記録していた漱石の日記は紅茶を考える上ではおもしろいし、価値あるものだったといえます。ちなみに鴎外と紅茶についてはまた後日書いてみようと思っています。
日常茶
日本でもお茶はよく飲みますが、玉露などの高くて高級なお茶を毎日何回も飲むという人は「お茶が趣味」でそれにお金と時間をかけられる一部の特殊な人たちでしょう。これはイギリスでも同じで、高級で品質の良い紅茶は大事な来客のときや何かの記念日などの特別な日の特別な時用のものになっています。
日本で一般的には、つまり日常的には煎茶や番茶が飲まれるように、イギリスでも日常的にはケニア産などの安くて細かく砕かれた(CTC製法)のものが飲まれています。ちなみに漱石がロンドンにいた頃はまだケニア産が流通していなく、アッサムなどのインド産は高級茶に分類されていたので、おそらくセイロン産の紅茶を細かく砕いたものが日常茶となっていたのではないかと思います。
スプーンが立つ
スプーンが立つほどに濃い紅茶
イギリスの言い方に「スプーンが立つほどに濃い紅茶」という表現があります。実際の英語では”the spoon would stand up straight in the”とか stand a spoon up in”や”Black tea so strong that the spoon stands up”などといくつかの言い方があるようですが、どれも訳せば同じようになります。
実を言うとこの表現を知って数年、くまにはよくわからなかったのです。「どうやったら紅茶にスプーンが立つの?」と、頭の中を「?」が一杯でこの表現の表しているものがわからなかったのです。もちろん「すごく濃い紅茶」を表しているのはわかりました。でも「なぜスプーンが立つ」の?と。
色々な文献を読んでも日本語のものにはこの言葉は出ていても、どういうものかは「濃い紅茶」以上のことが出ていなかったのです。そこで洋書を何冊か読んでいくうちに、これは歴史的な表現だということがわかったのです。
イギリスでは19世紀半ばまで中国から輸入した紅茶を飲んでいました。福建省の武夷山(ぶいさん)が主な産地です。その中国の紅茶は黒色ではなく、赤みがかった紅色(とはいえ、日本の水で淹れたのに比べたら黒っぽいです)だったのです。

1840年にインドのアッサムでスコットランド人のCharles Alexander Bruce (C.A. ブルース)がアッサム種の葉で紅茶を作り、それがロンドンに持ち込まれると、その水色は黒色になったのです。原因は、アッサム種の葉が大きいため、気温の高い国では酸化発酵の進みが速く、黒色の茶葉に仕上がったことがあげられます。その上、ロンドンの水質の硬度が高いので、水色が黒く濁ったのです。茶葉の色も水色も黒、まさにブラックティーだったわけです。それにたっぷりの砂糖とミルクを入れて飲んだわけです。

そしてここに盲点がありました。イギリスの紅茶についての本や、英語の本によく出てくる表現だったので、この「スプーンが立つほどに濃い紅茶」という言葉が生まれたのもくまはイギリスだと思っていたのです。
でもそれが間違いでした。
この言葉はヨーロッパに最初にお茶を紹介したオランダの言葉の英訳だったのです。オランダでお茶が輸入され始めた頃には茶葉は大変な高級品でした。それをたっぷりと使って濃く出した紅茶を出すということは大変なおもてなしだったのです。くわえて、当時の高級品に「砂糖」がありました。当時は砂糖と銀は同じ重さで取引されたといわれています。その砂糖を濃い紅茶にたっぷり入れて、溶けずに残った砂糖がカップの底にたまり、そこに刺さったスプーンが立っている、言い換えれば「それほど高価なものをふんだんに使ってもてなされた」ということを表した言葉だったのです。
それがイギリスに伝わり「濃いミルクティー」を指す表現として「スプーンが立つほどに濃い紅茶」という表現が定着したのでした。元々がオランダ語だったので、色々な英訳があっても不思議ではないですよね。

スプーンが立っている紅茶