contents
- 第1章 紅茶は“誰のもの”だったのか?
- 第2章 イギリスの階級構造──三階級モデルと七階級モデル
- 第3章:階級ごとの紅茶文化
- 第4章 階級が溶けた? あるいは、見えなくなっただけ?
- 第5章 紅茶は“階級の記憶”をとどめている
第1章 紅茶は“誰のもの”だったのか?
紅茶は「誰でも飲める庶民の飲み物」とされることがあります。実際、イギリスにおける紅茶の普及は18〜19世紀以降、すべての社会階層へと拡がっていきました。港湾労働者も鉱山労働者も、また侯爵夫人も女王陛下も、紅茶を口にしてきたという意味では、それはまさに“階級を超えた飲み物” だったのかもしれません。
──もっとも、それはあくまで「茶葉」そのものに限った話です。
紅茶はその「淹れ方」「飲み方」「器の選び方」「砂糖やミルクの配分」「誰が注ぐのか」「どこで飲むのか」まで含めて、その時代・その人の「階級」を映し出す鏡でした。紅茶の文化とは、言い換えれば階級という見えない秩序を、日常生活に丁寧に濾過して注ぎ込む行為だったのです。
たとえばティーセット一式。銀のティーポットに、ボーンチャイナのカップ、レースのクロス。これは単なる食器の話ではなく、「私は正しく淹れ、正しい順序で注ぎ、正しい手元で飲んでいる」という社会的演技の舞台装置です。すべてがきちんと揃っていれば、上流階級の振る舞いができる──逆にひとつでも欠けていれば、あとはお察しください。
一方、労働者階級における紅茶はどうだったでしょうか。朝早くから夜遅くまで働く人々にとって、濃く淹れた“ビルダーズ・ティー”は心身の燃料そのものでした。ティーバッグをマグに入れ、ミルクをたっぷり注ぎ、角砂糖をいくつか。何の気取りもありませんが、そこには確かな「日常」がありました。
それでも、同じ「紅茶を飲む」行為の中に、誰がティーポットを持ち、誰がそれを片づけるのかという“役割の壁”はしっかりと存在していました。紅茶は万人のものかもしれませんが、その「飲まれ方」は決して平等ではなかったのです。むしろ紅茶は、「見かけの平等」という幻想の中で、巧みに階級を区別するための小道具として機能してきたとすら言えるでしょう。
第2章 イギリスの階級構造──三階級モデルと七階級モデル
イギリスにおける階級構造の話をする際、多くの人が「上流階級・中流階級・労働者階級(または下級階級)」という三段階の区分を思い浮かべます。職業や教育、収入や住環境などをもとにして、この三層モデルはある程度まで社会の構図を説明する便利なツールとなってきました。
しかし、それはあくまで“見えやすい格差”の輪郭をなぞったものに過ぎません。
実際の社会はもっと複雑で、特に現代では「同じような収入でも、話し方が違えば評価が変わる」「専門職でも文化的関心の有無で扱いが変わる」といった微細な差異の累積によって、見えないヒエラルキーが構築されています。
三階級モデル(古典的な構造)
階級 | 特徴 |
上流階級 (Upper Class) | 貴族、地主、一部の資産家。伝統的な政治的・文化的支配層。 |
中流階級 (Middle Class) | 専門職、管理職、自営業者。教育・マナー・文化資本を重視。 |
労働者階級 (Working Class) | 肉体労働者、技能職、サービス業。日常労働と実利的価値観が中心。 |
しかしこの区分では、「伝統的労働者」と「サービス業に従事する若者」、「富裕層と新興IT企業家」などを同じ“中流”や“労働者”として扱わざるをえず、現代社会のリアリティとはズレが生じます。
七階級モデル:BBC調査による現代的分析
2013年、BBCがロンドン・スクール・オブ・エコノミクスなどと共同で実施した大規模調査「Great British Class Survey」は、社会階級を「収入」「文化資本」「社会ネットワーク」の3要素から再定義し、以下の七階級モデルを提案しました。
階級名 | 特徴 |
エリート (Elite) | 資産・教育・文化的洗練を備えた最上層。貴族・超富裕層・上流専門職など。 |
定着中流 (Established Middle Class) | 高収入で文化・教育資本が豊富。旧来の中流を代表。 |
技術中流 (Technical Middle Class) | 高学歴・高収入だが、社交性や文化関心が低め。 |
新興労働富裕層 (New Affluent Workers) | 比較的若年で、収入はそこそこ。カフェ文化などに親しむ。 |
伝統的労働者 (Traditional Working Class) | 年齢層が高く、文化資本は低いが、住宅所有率が高い。 |
新興サービス労働者 (Emergent Service Workers) | 若く、文化的関心はあるが不安定な雇用。 |
プレカリアート (Precariat) | 経済・社会・文化資本すべてが不安定。現代の“下層”とされる。 |
興味深いのは、紅茶を「何をどう飲むか」にもこの七層が微妙に反映されているということです。
エリート層はフォートナムのティールームで季節のブレンドを銀器で楽しみ、新興サービス労働者はカフェチェーンで“インスタ映え”を意識してティーラテを撮影し、プレカリアートは「紅茶を飲む習慣そのもの」を持たないことすらあるのです。
このように、「紅茶」は一見平等に見えて、その“飲み方の違い”が階級のありようを浮かび上がらせてしまうのです。
それは、イギリス社会の皮肉とともに、紅茶という文化の奥行きをも示しています。
第3章:階級ごとの紅茶文化
「紅茶はイギリス人にとって不可欠な日常」と言われることがありますが、日常であるからこそ、その些細な違いが「どの階級に属しているか」を雄弁に語ってしまうのです。
ここでは、三階級モデルと七階級モデルの両方を参照しながら、それぞれの階級における紅茶の“在り方”を見ていきましょう。
🏰 上流階級 優雅と作法の紅茶
上流階級における紅茶とは、単なる飲み物ではなく、文化資本の可視化でした。
- 器具: シルバーポット、ウォーマー、ティージャグ、ボーンチャイナのカップ
- 給仕: バトラーまたはハウスメイドが注ぐ(主人が注ぐのは非礼とされる)
- 時間: 正統なアフタヌーンティーは午後4時〜5時
- 儀式性: サンドイッチ → スコーン → ペイストリーの順、ナプキンの折り方までが様式化
話し方、座る位置、紅茶の銘柄──すべてが“控えめな自己紹介”であり、「上流階級であることを、あくまで控えめに強調する」という芸当が求められます。
それにしても、銀器の輝きが教養の光を反射する社会とは、なかなか眩しいものです。
🧑💼 中流階級 教養と選択の紅茶
中流階級の紅茶文化には、上流を目指す緊張感と、労働階級とは違うという自己認識が反映されます。
- 器具: 上質な陶器製ティーセット(Wedgwoodなど)、場合によっては銀メッキ
- 振る舞い: お客様にはきちんとしたティータイム、日常ではティーバッグ使用も
- 学びの場: 紅茶のマナー教室、アフタヌーンティーの模倣・再構築
この層にとって紅茶とは、「正しく振る舞えるか」が試される媒体でもありました。
どのブランドを選び、どんなタイミングで出し、どれだけ“自然に”作法を実践できるか──それ自体が一種の階級テストです。
言ってみれば、「階級をジャンプしないまま、階段を演じる」紅茶なのです。
🧱 労働者階級 濃さと機能性の紅茶
労働者階級では、紅茶は労働の合間に気力を保つためのエネルギー源でした。
- 典型例: Builder’s tea(濃いめの紅茶にミルクと砂糖たっぷり)
- 器具: マグカップにティーバッグ、ケトル
- タイミング: 朝の一杯、午後のティーブレイク(工場・職場で)
- 文化: ティーブレイクは労働者の「小さな権利」でもある
この紅茶には「見栄」も「作法」もありません。あるのは必要性と即効性。
けれど、ティーブレイクを共にすることで生まれる職場の連帯感や、家族の団欒のぬくもり──そうした人間関係の“接着剤”としての紅茶は、どの階級よりも豊かかもしれません。
📱 新しい階級 カフェ文化と「自己演出」の紅茶
エスプレッソの登場以降、紅茶もまたカフェ文化の波に飲み込まれました。
とりわけ新興の中流〜サービス業層では、紅茶は自己演出のツールとして活用されています。
- 例: 抹茶ラテ、ハーブティー、ティーラテなど
- 環境: カフェチェーンやオーガニック志向の店
- 文化: SNSでの写真共有、ライフスタイルの一部としての紅茶
この紅茶は「誰かに淹れてもらう」より、「見られることを前提として飲む」紅茶です。
つまりは、“演出されたティータイム”なのです。
階級が見えにくくなった現代においても、紅茶は依然として“何をどう飲むか”によって、私たちの立ち位置をやんわりと語ってしまう存在であり続けているのです。
第4章 階級が溶けた? あるいは、見えなくなっただけ?
「現代イギリスは、階級社会ではない」と主張する人がいます。
確かに、19世紀のように明確な家柄や肩書きで区切られる時代ではなくなりました。誰でも紅茶を買えますし、ティールームも大衆に開かれています。けれど、本当に階級は“溶けた”のでしょうか?
それとも──
見えにくくなっただけで、形を変えて残っているのでしょうか?
🎭 すべての人に開かれた紅茶、それでも…
スーパーマーケットの棚には、ティーバッグから高級オーガニック茶葉までずらりと並び、パブでも、ベジタリアンカフェでも紅茶が提供されるようになりました。大学生も建設作業員も銀行員も、それぞれの場所でそれぞれの紅茶を飲んでいます。
──一見、完全な「紅茶の民主化」です。
しかし、その背景にはいくつかの“見えない階層化”が潜んでいます。
☕ ティーバッグとリーフ 無意識の選別
リーフティーをきちんとポットで淹れるのは面倒ですが、「きちんとしている」印象を与えます。
一方で、ティーバッグは手軽で経済的ですが、「雑な人」という印象を持たれることもあります。
「お客様にはリーフ、自分はティーバッグ」
「日曜の午後だけ、ちゃんとした茶葉で贅沢気分」
このように、紅茶のスタイルは無意識に“生活レベル”や“自己評価”を反映させるのです。
🫖 カフェ文化と見えない階層の再構築
スターバックスやNeroでアールグレイ・ラテを飲みながらMacBookを開く人々。その背後には「意識高い系」あるいは「文化資本の可視化」といった言葉がチラつきます。
一方、駅前の安カフェでティーバッグをマグに放り込む日常は、「庶民的」「現実的」「無頓着」などと見なされがちです。
いずれも本人が言葉にすることはありません。
紅茶の選び方・飲み方・場所が、知らぬ間に「見えないタグ」になっているのです。
💸 「手頃な紅茶」にも格差はある
庶民派ブランドの安価ティーバッグとサステナブル認証付きの“フェアトレード紅茶”とでは、どちらが“道徳的に上”かと問われれば、多くの人が後者を選ぶでしょう。
けれど、そもそもそういった選択肢にアクセスできるかどうかも、情報資本と経済資本のある階層の特権です。
紅茶はいつの間にか、味と価格と価値観の三つ巴で“社会的立ち位置”を測る物差しになっているのです。
🔍 紅茶はむしろ、“見えない階級”の測定器
階級が表札や肩書きで語られなくなった時代に、
人は紅茶を通して、「どんな文化を選び取っているか」を観察されるようになったのかもしれません。
ミルクティーの色、カップの厚み、茶葉の由来、そして何より「誰とどこで飲むか」──それらが、誰に強制されるでもなく、静かにその人の“物語”を語り始めているのです。
そしてその物語は、かつてよりもはるかに曖昧で、はるかに選別的です。
第5章 紅茶は“階級の記憶”をとどめている
紅茶はただの飲み物ではなく、記憶の容れ物でもあります。しかもそれは、味や香りといった官能的な記憶にとどまらず、社会の仕組みそのものが蓄積された記憶──すなわち「階級の記憶」を含んでいます。
📜 記憶される作法──ティータイムという演劇
イギリスのティータイムは、ある種の舞台です。
その舞台には、かつての階級社会における演出が色濃く残っています。
- 誰がティーポットを持ち、誰が注ぐのか?
- ミルクは先か、紅茶が先か?
- ナプキンの折り方、スプーンの置き方、カップの持ち方……
これらは表面的には「マナー」と呼ばれていますが、実際には“どの階級出身かを判断するための暗黙のチェックリスト”でもありました。
そして恐ろしいことに──そのチェックリストは、現代でも密かに流通しているのです。
🧳 教養と家系の影──紅茶の銘柄を言えるか?
フォートナム、テイラーズ・オブ・ハロゲイト、ウィッタード。これらの名前を聞いて「英国伝統の紅茶ね」と思えるかどうか。
「あ、これロイヤルワラント持ってるやつ」
「こっちは植民地時代のブランドだけど、パッケージが洗練されてる」
そうした会話が自然に出てくるかどうか──
それ自体が教養という名の“階級記憶”の反射なのです。
まるで紅茶を飲むという行為が、個人の記憶だけでなく、社会の記憶装置として機能しているようです。
🫖 道具たちが語る記憶
- ボーンチャイナのティーカップ
- シルバープレートのティーポット
- 純銀のティージャグや、三段トレー
- あるいは、ミルクピッチャーのサイズや、砂糖壺の有無
これらは一見「ただの道具」ですが、一つひとつが“紅茶のあった風景”の記憶の断片でもあります。たとえば、上流階級では「カップは親から子へと受け継がれるもの」でした。それは単なる食器ではなく、家系の断片、階級の象徴、文化の継承物です。
いま、アンティークショップで「用途不明の銀製小型ピッチャー」が売られていたら──
もしかするとそれは、ヴィクトリア朝のティージャグの名残かもしれません。
🧩 階級の記憶は、風化しない
たとえ形式的な階級制度が消えても、その“記憶”は紅茶の飲み方・語り方・振る舞い方に宿り続けています。
それはイギリスという国の「文化的風化を拒む保守性」とも言えるかもしれません。あるいは、ただの郷愁か、あるいは気づかぬうちの選別か。
いずれにせよ──
紅茶は、かつての社会が自分をどう位置づけたかを語る小さな装置として、今も静かに、あなたのテーブルの上に置かれているのです。
🕯️ 最後に──ティーカップに映る、私たちの社会
紅茶の表面には、光と香りとともに、かつてのイギリス社会の影も揺れています。そこに映るのは、もはや過去だけではありません。
今この瞬間の私たちの姿──どんな生活をし、どんな文化を持ち、どんな言葉で語るのか。それが静かに浮かび上がってくるのです。
紅茶を口にするそのたびに、私たちは知らず知らずのうちに、一杯のティーに宿る「階級文化」と向き合っているのかもしれません。
それでも、私たちはこう願ってよいでしょう。
カップの中にあるのは、過去の階級ではなく、
くま
今この瞬間を、誰かと分かち合える温もりであってほしい──と。