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🕵️♂️ ティーポットの中のスパイ ~紅茶と冷戦時代の諜報活動
「静けさの中に潜むもの」
紅茶、それは英国の象徴であり、日常の安らぎを提供する飲み物です。しかし、冷戦時代、そのティーカップの横には国家の耳と目が潜んでいました。ロンドン、モスクワ、ベルリン、そして大使館のサロン。紅茶の湯気の向こうには、スパイたちの静かな戦いが繰り広げられていたのです。
第1章:諜報と紅茶の舞台装置 ― 静寂の香りに潜むコード ―
ティータイムに潜むもうひとつの目的
紅茶は、日常に安らぎをもたらす飲み物です。英国では、ティータイムは単なる食事ではなく、生活の中の文化であり儀式であり、会話の場であります。
しかし、冷戦期においてその空間は、情報を観察し、相手の正体を測るための道具にもなり得たのです。
紅茶の振る舞いが語るもの
英国諜報機関MI6、国内情報部MI5、そして東側のKGB。
情報機関の人々が日常生活を装って交わるとき、紅茶はその立場や出自を推測するヒントにもなっていたのです。例えば
・カップを右手で持つか左手で持つか
・角砂糖かグラニュー糖か
・濃い紅茶か、レモンかミルクか
それらの選択肢には、無意識の出身階級、教育、文化背景がにじんでいたのです。
1.「ミルクは先か、後か?」―それは沈黙の試験
英国では、紅茶にミルクを先に入れる派(Milk in First)と、後に入れる派(Milk in Last)が存在します。Milk in First は庶民的な習慣(陶器を割らないため先に冷やす)とされていましたし、Milk in Lastは紅茶の濃さを調節しやすく、上流階級や紅茶の専門家に多かったのです(現代では階級に関係なく後から入れる人が80%を越えています)。
冷戦下、スパイたちはこうした文化的「癖」を観察することで、相手の素性を推測する小さな“仕掛け”が行われました。つまり、パーティーで紅茶を勧めながら、その人物が「どちらの順でミルクを入れるか」を観察する―
それは、直接尋ねるよりも、はるかに正確な“国籍判定”だったといわれています。
2.フィッシャー実験と感覚の記憶
1935年、現代統計学の礎を築いた人物でもある統計学者Ronald Aylmer Fisher (ロナルド・アイルマー・フィッシャー)は『The Lady Tasting Tea』という実験で、ある女性(Muriel Bristol)が「ミルクを先に入れたか、後に入れたか」を味で見抜けるかどうかを検証しました。
結果は肯定的で、彼女は見事に正答しました。この逸話は、紅茶文化が英国人の感覚とアイデンティティに深く刻まれていることを示しています。そしてその文化的センサーは、冷戦下では人間観察の道具へと転用されました。
3.『寒い国から帰ってきたスパイ』
著者ジョン・ル・カレ(元MI6職員)は、この作品でそれまでの「華麗なスパイ像」(ジェームズ・ボンド的ヒーロー)を打ち壊し、冷たく、灰色で、心理的に疲弊した本物の諜報活動の世界を描き出しました。物語の主な舞台は、冷戦最前線の西ベルリンとロンドン。情報戦に巻き込まれた人間たちが、曖昧な忠誠心と欺瞞のなかで互いを疑い合い、精神的に削られていく陰鬱な空気に満ちています。

次の小話は実際の登場人物・舞台設定を基にしたくまのオリジナル描写ですが、ル・カレ作品のトーンに則ったものとしてお楽しみください。
🔹 冷たい紅茶と、冷たい嘘
MI6の面談室。ティートロリーが静かに滑ってくる。
アレック・リーマスは、書類の束を机の隅に押しやると、冷えきったティーカップに手を伸ばした。
「ミルクは……先に入れたんだな」
デスクの向こう側に座る男がそう呟いた。まるで何でもないような口調だったが、ティースプーンの音が一瞬止まった。
「ああ。貧乏人のやり方だろう」
リーマスは顔を上げずに応じた。嘘だった。彼は昔から“milk last”派だった。ただ、この部屋にいる誰にも本当の自分など見せたくなかった。
男はカップを静かに置いた。紅茶の香りがほんのわずかに立ちのぼる。
「忠誠心ってのは、案外ミルクの順番に出るらしいよ」
その一言の後、二人の間に沈黙が落ちた――
紅茶の香りと共に、沈黙はどこまでも冷たく、重たかった。
“Milk in first”――その選択が、語られざる履歴書のように、テーブルの上に開かれていた。
解説:なぜこの描写が意味を持つか?
・ミルクの順序:英国では、”milk in first”はかつて庶民階級の象徴とされていました。貴族やインテリ層はティーの温度や香りを重視し、”milk in last”を選ぶ傾向が強かったのです。
→ スパイの世界では、このような「ささいな習慣」が所属階級や国籍の手がかりになることがありました。
・ル・カレ作品の空気感:リーマスのキャラクターは、理想を捨てた疲れた男として描かれており、紅茶の飲み方にすら虚無感や反抗心がにじむのが、作品の世界観と合致します。
・紅茶=沈黙の象徴:ティーカップを挟んだ会話は、「何を話すか」よりも「何を話さないか」の方に意味がある。これはル・カレ全体のスタイルでもあります。
4.紅茶の香りが暴くもの
紅茶の香りは平穏の象徴でした。しかし、その香りの向こうで、スパイたちは常に相手の仕草、所作、選択を読み取っていたのです。
例えば中国の事例(後述)ではティーポットに、密かに盗聴器が仕込まれていたというエピソードがあります。この「日常」への侵入は、紅茶がただの飲料ではなく、秘密を運ぶ器として機能していたことを示しています。
また、東ドイツの国家保安省(Stasi)は、自宅で使われるコーヒーポットを通じて住民の生活を監視していました。ハンドルの位置が微妙に動いている写真が記録され、「誰かが侵入し飲んでいる」という異変を示す証拠とされたのです。これは、「目に見えない監視」が、日常の中の小さな変化から浮き彫りになった象徴的な事例でもあります。
このように冷戦の時代、ティーポットが注ぐのは、紅茶だけではなかったのです。人の正体や忠誠、嘘と真実の気配すら、静かに蒸気のように立ち上っていたと言えるのかもしれません。
ティータイムという「平和の儀式」の裏で
これらのエピソードは、紅茶の「静かな時間」に、実は冷戦期の“見えない戦線”が交錯していたことを物語っています。
・ティーポットが盗聴の舞台になる
・香りの向こうで、情報がこっそり奪われていた
まさに、紅茶の蒸気の向こうに潜む「諜報の舞台装置」そのものです。
付録 参考文献
先日「ひとつの記事を書くのにどのくらい調べているのですか?」という質問と「ひとつの記事を書くのにどのくらいエビデンスを意識していますか?」という質問をほぼ同時に頂きました。そこで、ちょっと今回は科学的な記事ではないのですが、それでもこのくらいは読んでから書いています、というのを参考までに一覧にしてみました。
(面倒だからこのシリーズだけで勘弁してね💦)
- 『寒い国から帰ってきたスパイ』 (ハヤカワ文庫1978 ジョン ル カレ 著,宇野 利泰 翻訳)
- Q & A with Joann & Jim Mead
- A Cold War Spy Dossier Revealed – With Lessons for Today
- The inside story of Oleg Gordievsky’s escape from Moscow – told by ex-MI6 chiefs
- The U.S. Embassy will continue to make tea in the proper way – by microwaving it.
- The secret lives of MI6’s top female spies
- How the Soviet Union Gifted a Hidden Spy Device That Took US 7 Years to Find
- The “Thing” The Great Seal Bug.
- An explosive exposé of MI5’s unaccountable spying on communists and industrial militants
- Balletpropagandaandpolitics(pdf)
- English afternoon tea etiquette
- Pigeon Cameras and Other CIA Cold War Spy Gear
- Top 20 Sneaky Spy gadgets used in the Cold War …
- Adventures in Research: Secrets and Spies During the Cold War
- What MI5’s records on my father tell us about the uses of surveillance
- Spies and their lies
- The duke, the spies, and the KGB: how cold war plotting entangled Soviet royal visit
- MI5
- The Sandbaggers
- Cold War espionage
- 5 Surveillance Methods the Cold War, and the Rule of Law
- The History & Etiquette of Afternoon Tea
- Go Undercover at the Truman Library’s Newest Exhibit, SPIES!
- The Cold War
- The ‘Wilson Plot’
- cold war captives(pdf)
- The Cold War Through the Looking Glass
- 20 Cool KGB Cold War Spy devices
- MI5: Official Secrets – The National Archives
- 12 Pcs Tea Tin Canister with Airtight Double Lids 8 oz
- Real-Life Spies Pick Their Top 50 Non-Fiction Spy Books
- TEA TIME IN ROMANOV RUSSIA: A CULTURAL HISTORY, 1616-1917
- Back in the USSR — Life as a Student in Moscow in the 1960s
- Top 10 Spy Sites in London
うーん、こんなに読んでたのか……
と、くまは自分でびっくりしました🤣