contents
- 4.ダブルエージェントの沈黙― 語ることなく、選ばれる ―
- 🍬砂糖の選択が意味するもの──冷戦下における「甘さ」の戦略的読み取り
- 5.テーブルをはさんだ沈黙と微笑― 紅茶は語らず、空気が語った ―
- 6.紅茶はどちら側にいたのか― 沈黙と香りのあいだに ―
- 参考文献
4.ダブルエージェントの沈黙
― 語ることなく、選ばれる ―
彼は、口を開くことなく忠誠を問われていた。
ただ、角砂糖を1個。
それは答えでも、罠でもなかった。
観察される者が仕掛ける、逆観察のはじまりだった。
🔍紅茶の所作にまつわる「沈黙のチェックリスト」

🍬砂糖の選択が意味するもの
──冷戦下における「甘さ」の戦略的読み取り
紅茶の飲み方の中でも、とりわけ“砂糖の扱い”は個人の性格・文化背景・心理状態が現れやすい要素として重視されていました。

以下にその詳細なポイントをあげてみます。
1.角砂糖(sugar lump)を選ぶ人
英国文化的には伝統派
・古くからの習慣であり、特に戦前~戦中世代に多い
・「きちんとしたティータイム」を重視する階層的行動
・公的空間での礼節や格式に対する配慮が強い
・手で触れる、トングを使う、数を数えるなど、所作に「儀式性」が出やすい
・“格式”や“見られている意識”を持つ者が選びやすい
🔍観察者から見た読み取り
・角砂糖を使う人は「秩序を好む」「観察されている空間に自覚的」と見なされることがある
・また、砂糖をトングで扱う動作によって、手の動き・緊張の程度・手元への集中度が測れる
2.グラニュー糖(loose sugar)を選ぶ人
実用性重視、あるいは環境への馴染みの深さ
・実用性重視。自宅や非公式の場で多く見られる
・スプーンで分量を調整できるため、個人の好みや自由度が反映されやすい
・スプーンの回数、入れる量などにその場の心情がにじむ
・緊張していると“こぼす”“入れすぎる”などのミスが出やすい
🔍観察者から見た読み取り
・グラニュー糖を使うと、分量選択・かき混ぜ方に性格の癖が出やすい
・緊張していると「入れすぎる」「かき混ぜが過剰」「スプーンを置く音が強い」などが顕著になる
3.砂糖を入れない人
場に対する距離感・自律性・警戒心
・特に外交・軍関係者では「自制心」「身体管理」「警戒心」の表れとも取られる
・「味覚ではなく環境に集中している」サインとも解釈される
・緊張/不信感のある場では、「甘さ=油断」として避けるケースもある
🔍観察者から見た読み取り
・無糖を選ぶ人は、“紅茶に集中していない”=会話・場面の主導権に意識が向いている
・逆に、普段甘党の人物が無糖を選んだ場合、それは「不安定な心理の兆候」とも読み取られることがある
※ある担当官は、「甘党の対象者が急に無糖に切り替えたら、必ずその理由を探れ」と教えられたという。
🔍 特に冷戦期における「角砂糖の数」観察
MI5やKGBの面談マニュアルでは、以下のような分析もあったとされます(回想文献より)
・通常より多い砂糖を求める → 緊張/安心欲求の表れ
・角砂糖を1個ずつ静かに入れる → 自制心と状況判断能力の高さ
・「角砂糖を崩してから入れる」癖 → 強迫的性格、過去の軍事訓練者に多い傾向
🕵️実話をもとにした構成:MI5による“逆観察”の記録
1962年、ロンドン市内。
MI5が接触した某科学者(元共産党系協力者)は、紅茶を出されると即座にカップに手を伸ばした。
角砂糖2個、ミルクは後―完璧な英国式だ。
スプーンの動きにも無駄はなく、カップを置いた後の所作も実に静か。
だが、担当官は違和感を覚えた。
科学者の経歴上、軍務経験も英国教育制度もなかったからだ。
紅茶の作法は明らかに“学ばれたもの”であり、“観察される”ことを前提に訓練された者の動きだった。
報告書にはこう記された:
“完璧すぎる者には、何も信じる材料がない。
むしろ、彼は『観察されている』という舞台の中で、自らの輪郭を故意にぼかしている。”
これを各々の立場で見ると以下のようになります。
【担当官の視点】
・担当官は、手帳に何も書かない。
・カップの揺れと、角砂糖の音だけがメモになる。
“この男は、誰かに仕込まれた。
いや、自ら仕込みなおしたのかもしれない。”
【某科学者の視点】
・ミルクは後。
・トングはやや斜めに。
・湯気が立つうちに、1回だけ目線を上げる。
“すべては、彼らが知りたい“英国の男らしさ”に合わせて整えた。
だが、彼自身の味覚は、もはやその紅茶を楽しんではいなかった。”
沈黙は、主導権の影だといえます。
紅茶を飲むという行為。
それが本当に「くつろぎ」であるのか、「演技」であるのか
―MI5もKGBも、答えを求めることはしませんでした。
なぜなら、一杯の紅茶は、問いかけではなく、“状態”を観察する場だったからです。
5.テーブルをはさんだ沈黙と微笑
― 紅茶は語らず、空気が語った ―
紅茶の香りは、言葉よりも早く部屋に広がる。
だが、カップが置かれる音のあとに残る沈黙には、
もっと多くの意味が含まれていた。
紅茶が媒介する「ことばにならない交渉」
冷戦の表舞台に出る者たち、あるいはその背後に潜む者たちにとって、言葉はしばしば危険なものでした。だからこそ、沈黙が用いられたのです。そしてその沈黙を、“無害に見せるための道具”として、紅茶は重宝されました。
紅茶の場では、
・わざと視線を合わせずに笑う
・カップを置くタイミングで相手に呼吸を合わせる
・砂糖を使わないことで「好み」を示さず、判断材料を消す
といった行為が繰り返されます。それらは「お茶を楽しむ」ための所作ではなく、「相手に読ませないための自己設計」だったことも多かったのです。
微笑:言葉の代わりに出される“姿勢”
MI6の元局員が残したメモには、こう記されていた。
“たいていの者は、言葉でごまかそうとする。
本物は、言葉を使わず、表情を“操作”してくる。”
紅茶の席で交わされる微笑―それは、信頼の証ではないのです。
「私はあなたの敵ではありません(敵かもしれないけれど)」
という、二重のコードが埋め込まれた仮面だったのです。
🕵️語られない交渉、記録されない合意
1971年、ジュネーブ。
MI6とKGBの仲介者が、第三国のホテルで対面した。
テーブルの上には、英国式の茶器セット。
彼らは20分、紅茶を飲んだ。
一言も交わさず、カップの位置を変えただけで、次の合図が成立したという。
これはいわゆる“サイン交換式の非言語合意”とされるものです。
スパイの世界では、記録に残る通信を極力避けるため、紅茶の受け取り方やカップの置き方、砂糖の使い方などをあらかじめ暗号として取り決めておくことがあったのです。たとえば
・砂糖を使う=同意、使わない=保留
・カップを左に置く=了承、右=拒否
・ティースプーンの位置で次回の接触条件を指定
などといった具合です。実際の会話は一切行われず、その場の空気と所作のみによって“言わずに伝える”合意が成立するのです。当然ながら、録音にも記録にも残りません。
その場にいた中立国の観察者はこう述べたといいます。
「まるで、茶卓がひとつの暗号になっていたようだった。
微笑は言葉を消し、紅茶が沈黙を保存していた。」
紅茶は“冷たい交渉”をあたたかく包む
沈黙が成立するには、緊張と信頼の両方が必要です。紅茶は、その両者のあいだに立ち、和らげるふりをして緊張を保ちつづけるのです。そのテーブルには、殺気も友情もありませんでした。ただ、誰も語らないことに成功した者同士の静かな微笑があっただけなのです。
紅茶はときに、言葉より深く届く。
一杯のあたたかさが、人の心を読み違えさせることもある。
だが、それもまた、仕組まれた静けさの一部だった。
6.紅茶はどちら側にいたのか
― 沈黙と香りのあいだに ―
その席では、誰も紅茶について語らなかった。
だが、紅茶がなければ、何も始まらなかった。
味方か、敵か、それともただの媒介か
この章を通じて繰り返されてきたのは、紅茶というごく日常的な文化装置が、いかにして心理戦、諜報、観察、演出と結びついていたかという問いでした。では、紅茶は本当に“どちら側”にいたのでしょうか?
・信頼を装うための演出として?
・緊張をほどくための偽装として?
・真実を読み解くための鍵として?
いずれも正解であり、いずれも不完全です。
香りの影に潜む記憶
紅茶の香りは、誰かの記憶に語りかけます。
それが心をほどくものなのか、かえって不安をあおるものなのかは、その香りが“過去にどう記憶されたか”に左右されます。同じアッサムの香りが、ある者には「母国の午後」を思い出させ、別の者には「偽装された面談」を想起させるといった具合です。そんな世界で、紅茶はいつでも“誰かの立場の中に”染まっていたのです。
紅茶は沈黙の味方だった
一方で、はっきりしていることがあります。
紅茶は、どちらの味方でもないということです。
それでも、沈黙の味方ではありました。
・紅茶を囲むことで、人はしゃべらずに済んだ。
・沈黙を保つために、紅茶は存在した。
そしてその沈黙の中にこそ、敵も味方も区別できない、もうひとつの交差点が現れていたのです。紅茶は何も語りませんでした。それでも、そこに在るだけで、“何かが確かに交わされた”という記憶を、私たちの中に残すのです。
そしてそれは、「香りの影に潜む記憶」とつながっていたのです。
参考文献
- Andrew, Christopher. The Secret World: A History of Intelligence. Yale University Press, 2018.
- le Carré, John. The Spy Who Came in from the Cold. Victor Gollancz, 1963.
- Macintyre, Ben. The Spy and the Traitor: The Greatest Espionage Story of the Cold War. Crown, 2018.
- Strong, Rowan. Anglicanism and the British Empire, c.1700–1850. Oxford University Press, 2007.
- MI5 Official Website – History & Operations
- British Library – A Brief History of Tea
- Stasi Museum (Berlin) – Exhibition Resources
- CIA Reading Room – Nonverbal Communication in Intelligence Interviews
- Twinings Tea – Heritage & History
- Fortnum & Mason – A History of Fortnum’s Tea