contents
- 📝 概要
- 🌱 戦後の断絶と“空白の10年”
- 🚫 “消された存在”としての国産紅茶
- 📦 紅茶自由化がもたらした逆風
- 🌱 それでも残そうとした人たち
- 🔁 “復活”とは何だったのか?
- 🔚 記憶の空白に橋をかける
- 🔗 関連項目
📝 概要
「日本製の紅茶」は、かつては輸出主力品でもありましたが、戦後の輸出政策・統制経済・自由化政策のはざまで急速に姿を消しました。その結果、日本国内では「紅茶は外国のもの」という認識が一般化し、国産紅茶は長らく“なかったこと”にされてきました。
🌱 戦後の断絶と“空白の10年”
戦後、国内での紅茶生産は一時的に外貨獲得のための輸出専用とされ、国内流通はほぼ停止しました。輸入制限とJAS制度の導入は、国産紅茶を“制度内の農産物”へと再定義する一方で、流通・認知の面では空白を生みました。
🚫 “消された存在”としての国産紅茶
高度経済成長とともに生活が洋風化し、イギリス紅茶をはじめとする海外ブランドが日本市場を席巻する中で、国産紅茶は“中途半端”で“安かろう悪かろう”という偏見にさらされました。流通経路も限られ、農協や製茶工場で細々と作られていたものの、多くの人はその存在すら知りませんでした。
📦 紅茶自由化がもたらした逆風
1964年の輸入自由化は、消費者に多様な選択肢を与えた一方で、日本の紅茶産業には大きな打撃を与えました。国内生産の販路はさらに細り、1970年代には国産紅茶を辞める農園も続出しました。「復活」ではなく、むしろ“市場からの消滅”に近い状況でした。
🫖 “日本ブランド=国産”ではなかった現実
日東紅茶などの日本ブランド製品は、実際には輸入茶葉を使用し、国内でブレンド・加工されたものでした。これらは「黄色い缶」のような輸入高級紅茶とは明確に区別され、「廉価で大量に飲めるティーバッグ紅茶」=日本ブランドというイメージが形成されました。
この構造は現在に至るまで残り、「日本産紅茶=知らない」「国産=安価な代用品」という二重の誤解を生む土壌となりました。
🌱 それでも残そうとした人たち
しかし、ほんの一部の地域では、茶業者や研究者たちが細々と紅茶を作り続けていました。静岡、三重、熊本などでは、緑茶品種から紅茶を製造する技術が維持され、やがて2000年代以降の“和紅茶”ブームにつながる土台を築いていたのです。
🔁 “復活”とは何だったのか?
2000年代以降、国内紅茶が「和紅茶」という新たな名前で再評価され始めたとき、それは本当に「復活」だったのでしょうか。それとも、「見えなくされてきたものに、ようやく光が当たった」というほうが近いのかもしれません。
🔚 記憶の空白に橋をかける
国産紅茶は「知られていない」というだけで、実は途切れずに存在してきたものです。今、「日本ブランドの紅茶」を語ることは、ただ商品の話をすることではなく、忘れられた時間と努力を記録することでもあります。
🔗 関連項目
- 📦 紅茶の輸入制限解除
- 🏞 和紅茶
- 🧪 JAS法と紅茶
- 🫖 ティーバッグの普及史
- 🏙 紅茶とモダン喫茶店