第一次世界大戦は1914年~1918年11月11日まで続いたドイツ帝国とオーストリア=ハンガリー帝国、オスマン帝国、ブルガリア王国の4か国の中央同盟とイギリス、フランス、ロシアの三国協商との戦いです。 当時生活の中に紅茶が欠かせなかった英国人は「戦争になると紅茶が飲めない」とパニックになり、買占めが起こりました。
しかし、イギリス政府はパン(1917年以降)、砂糖(1918年)、肉、バター、ミルクなどを配給制にしましたが、紅茶は最後まで自由市場での販売が維持されていました。
でも現実には戦争の影響で紅茶の供給が不安定になり、価格の高騰や不足が発生しました。これに対処するため、政府は価格統制や輸入制限などの措置を講じました。、1918年に導入されたRation-like Measures(制限)によって完全な「配給制」ではないものの、特定の業者には割り当て制が導入されました。
たとえば、大型商店や茶業者には”tea quotas (輸入茶の割当量)”が設けられ、地域差が生まれました。統一された国策ではありませんが、一部の地方では一人あたり週1〜2オンス(約28〜56g)に制限されたという記録もあります。
当時のポスターや広告には、紅茶の重要性を訴えるものが多く見られます。例えば、”While there is tea there is hope (紅茶がある限り希望がある)”というスローガンは、紅茶が国民の士気を支える象徴であることを示しています。当時のポスターなどからも紅茶が戦時中のイギリス人にとって、単なる飲み物以上の意味を持っていたことが伺えます。

戦後すぐの1920年代には紅茶の供給も回復し、平時価格への移行とともに自由市場が復活しました。
第二次世界大戦(1939年)では本格的な紅茶の配給制度である”Tea Rationing”が導入され、成人一人につき週2オンス(56g)という厳しい制限が設けられました。6歳以上の男女に対して”the General Ration Book(配給手帳)”が配布され、各自特定小売業者に登録し、食料はその特定小売業者から購入することが義務付けられました。
これは、紅茶がイギリス兵にとって戦地でも必需品だったため、制限をかけることに躊躇していた政府も、最終的に紅茶の配給を決めざるをえなかった為です。配給量は年齢や職業によって異なり、終戦後も1952年まで続きました。
第二次世界大戦中、イギリスは食料や日用品の不足に苦しんでおり、多くの物資が配給制となりました。紅茶は、そのような状況下でも、イギリス社会にとって重要な存在であり、その重要性を考慮して確実に国民の手元に届くように配給制度が導入されたと考えられます。