India tea (4) Assam (2)

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Charles Alexander Bruce

1824年、Robertはいくつかの植物と情報を弟のCharles Alexander Bruce (チャールズ・アレクサンダー・ブルース)に譲りました。Charlesは、ジュンボー族の族長ビーサ・ガウムに再び接近し、野生の茶樹と種子を満載したカヌーを手に入れ、Assamとカルカッタの役人、特にAssamの初代総督David Scott (デイビッド・スコット)大尉に送り、残りは興味を持ちそうな人々に惜しみなく分配しました。

Charles Alexander Bruce
Charles Alexander Bruce

David Scott

Scott大尉は、その大きな可能性に気付き、カルカッタの植物学の権威であるN.Wallich博士に、Charlesが情報源であることは一切言及することなく、彼らの認識と行動を求める手紙を送りました。しかしN.Wallichは「中国以外でチャノキは自生していない」と固く信じていたため、インド土着の茶には全く関心がありませんでした。さらに、茶葉と種子だけのサンプルでは、​​茶の種類を特定するには不十分だったようです。

Scottが1825年、1826年、そして1827年にN.Wallichに送ったロットはすべて、Camellia drupifera (アブラツバキ)とみなされ、チャノキではない、とされてしまいました。東インド会社当局はAssam茶に関しては無関心を貫いていました。彼らはインド品種の茶の存在を信じておらず、興味も持っていなかったのです。それは最終的に冒険心旺盛なAndrew Charlton(アンドリュー・チャールトン)中尉の熱心な努力によってAssam茶が認められるまで、さらに7年の歳月を要しました。

Nathaniel Wallich
Nathaniel Wallich

Andrew Charlton

1831年、Assam軽歩兵隊に所属していたCharltonは、サディヤ周辺の丘陵地帯にあるAssam東部で茶が栽培されていることを発見しました。彼はオランダ領東インドに滞在していたときに茶の木の見分け方を学んでいました。機知に富んだ庭師の助けを借りて、彼は茶の栽培に関するヒントを得て、ジョルハットの自宅の庭で茶の苗木を栽培しました。Charltonは4本の若い茶の木をカルカッタのJohn Tytler (ジョン・ティトラー)博士に送り、博士はそれを植物園に植えましたが、植物学的調査が行われる前に枯れてしまいました。

1831年10月にカルカッタを訪れたCharltonは、数本の茶の木を持参し、農業園芸協会に提出しましたが、サンプル数が少なすぎるという理由で協会には無視されました。次に1834年11月、Charltonは実の付いた茶の木をN.Wallichに送りました。N.Wallichは検査の結果、その実から説得力のある結果を得て「Assam茶は中国の茶と同じくらい本物である」と最終的に宣言しました。N.Wallichは1834年12月6日、Charlton中尉がAssam茶を発見したことを、設立されたばかりのTea Committee(茶委員会)に書簡で伝えました。Robertの死から10年後、Assamの野生植物はCamellia sinensis(カメリア・シネンシス)の1種として正式に認定されました。N.WallichがAssam茶を正式に認めたのがクリスマスイヴだった、という説もあり「クリスマスの発見」という人もいます。ロマンティックな説ですが、12月6日が確定日という方が有力なようです。

Tea Committee

カルカッタ植物園の園長であったN.Wallich博士は1834年にAssamを訪れ、これらの標本を特定し報告書を提出しました。

ところで1833年、東インド会社による中国貿易の独占が終わり、イギリス商人は大きな打撃を受けていました。イギリス政府は、この損害を補うためインドで茶の栽培を開始することを決意し、それを受けたアッサム総督William Bentinck (ウイリアム・ベンティック)卿は1834年2月にTea Committeeを設立し、商業栽培を開始しました。

William Bentinck
William Bentinck

Francis Jenkins

Tea Committeeは茶の栽培が可能な地域に関する報告を求める回覧状を出しました。それに対して、Francis Jenkins (フランシス・ジェンキンス)船長がほぼ即座に返答しました。Jenkinsは東インド会社に加わり、1832年10月から1833年4月にかけて、イギリスによる併合後のAssamの調査を行いました。

彼の報告に基づき、サディヤに試験的な苗床が設立され、まもなく良質の茶が生産されるようになりました。Jenkinsの助力により、商業生産は急速に発展し、1859年までにこの地域の7,500エーカー以上の土地が茶の栽培に利用されました。

野生茶林に代わるアッサム茶の栽培

Charlesは、1836年にTea Committeeから派遣されたN.Wallich、William Griffith (ウィリアム・グリフィス)、John McClelland (ジョン・マクレランド)を含む調査団を率いて、Assamのサディヤ周辺の自然生育環境で茶の調査を行いました。

Charlesが主導権を握り、苗床となる土地を確保し、そこに在来種の茶の種子を植えました。植物は生き残り、Charlesは中国人労働者の協力を得て、同年、少量の加工茶のサンプルをTea Committeeに送ることに成功しました。また、カルカッタの植物園にも植物分類のため種子を送りました。最初のサンプルはオークランド総督によって承認され、専門家らはその茶が非常に高品質であると判定しました。1837年までに、Charlesは在来種の茶葉で満たされた46箱の茶葉をTea Committeeに届けさせました。カルカッタ植物園も科学的評価を完了し、この植物は独自の名称を与えられ、カメリア・シネンシス(Camellia Sinensis)の変種アッサミカ(Assamica)として分類されました。

1835年2月11日、Tea CommitteeはCharlesを、アッサム北部のサディヤなどの地域に開発される苗床の責任者に任命しました。2年後、Charlesは茶園の監督官に任命されました。’tea garden’(ティーガーデン)という用語の使用を先導したのはCharlesでした。これは、植民地時代の環境で半機械化されたシステムを用いて茶を生産する方法を示す‘tea forest’(ティーフォレスト)からの意義深い言語的転換でした。Charles Bruceは「インド茶の父」と称されています。イギリスは1837年、Assam北部のチャブアに最初の茶園を建設しました。

1839年1月、ロンドンでアッサム茶8箱が競売にかけられました。これは、1世紀半続いた茶市場における中国の支配の終わりの始まりでした。当時の茶貿易における中国人の影響力を弱める上で重要な役割を果たしたのです。19世紀半ばまでに茶の生産はAssamからダージリンやニルギリへと広がりましたが、そこでの生産量はAssamに匹敵することはありませんでした。

Assam Tea Company

1839年、Assamでの茶の発展を追求するために2つの会社が設立されました。ロンドンのAssam茶協会とコルカタのベンガル茶協会です。しかし、両社はすぐに合併して、資本金50万ルピーのAssam Tea Company (Assam茶会社)を設立しました。これはインド初の株式会社です。

その間に、東インド会社の役人たちは、インドでの栽培のために中国から8万本の茶の種子を密輸していました。彼らはまた、茶栽培の手ほどきをするために数人の中国人農家も連れて行きました。会社はカルカッタの植物園で種子を発芽させ、その苗木をAssamに植えようとしたのです。しかし、その苗木は在来種の茶樹と交雑受粉してしまい、実験は完璧な失敗に終わりました。

その後茶園はAssamを越えて、インドの全土に広がっていきます。
1871年、CharlesはAssam原産の茶樹栽培の功績により、王立芸術協会から金メダルを授与されました。これに対してJenkins と Charltonが異議を唱え、自分たちの功績であることを主張しました。結果としてこの二人にもメダルが授与されました。アッサム種発見の最大の功績者であるBruceのみ、既に亡くなってたいたのでその栄誉が与えられませんでした。

Charlesは78歳でAssamで亡くなり、Assamのテズプールにあるキリスト教墓地に埋葬されました。

茶の密輸に使われたWardian Case
茶の密輸に使われたWardian Case
茶の密輸風景
茶の密輸風景