デカフェと思想

contents

📊 消費者心理とデカフェ選好 誰が、なぜ、いつ選ぶのか?

🧠 1. カフェインへの心理的態度の変化

  • 昔:カフェイン=覚醒・集中・元気の象徴
  • 今:カフェイン=不安・睡眠障害・刺激過多の要因にも
  • デカフェは「安心・コントロール・やさしさ」の象徴へ

カフェインは「良薬」から「選択対象」へと変わってきました。


🧓 2. 年齢別傾向 ライフサイクルとデカフェ

年代主な傾向典型的な理由
20代美容・メンタルケア志向睡眠改善、PMS、ストレス対策
30〜40代ワークライフバランス重視夜の一杯、育児中、集中力維持
50代以上健康管理・医師の助言血圧・不眠・不整脈などの懸念

年齢とともに「好みだから→必要だから」への移行が見られます。


👫 3. 性別差と傾向

  • 女性:妊娠・授乳・ホルモン周期への意識が高く、デカフェ選好が強い傾向があります。
  • 男性:仕事効率のためのON/OFF切替として、夜だけデカフェ選択も増加しているという説もありますがどれほどだかは不明です。

どちらにしても「自分の身体と会話する」意識がデカフェ選好の鍵になっているという主張もあります。


🌍 4. ライフスタイル別傾向

タイプ傾向
マインドフル志向積極的デカフェ派瞑想・オーガニック愛好者・いわゆる「意識高い系」
ワークスタイル重視時間帯で使い分け朝=カフェイン、夜=ノンカフェイン
食養生・自然派避ける傾向強アレルギー、漢方、栄養指導層
プレゼント需要ギフト用に選択妊婦・産後ケア・お見舞いなど

こう並べてみると、デカフェは「思想」なのか「状況に応じたもの」であるのか?考える部分ではあります。ただ、マインドフルで不自然なデカフェを選ぶというのはかなり笑ってしまいますけど。


☕ デカフェと現代思想 軽さの時代の嗜好品論

🧠 はじめに なぜデカフェが思想になるのか

カフェインを抜くことが、なぜここまで語られるのか?
それは、身体に取り入れるものを選ぶという行為が、 私たちの「自己イメージ」や「倫理観」にまで関わっているからです。
デカフェはただの飲み物ではありません。
それは、「どう生きるか」という問いの、液体のかたちをした答えの一つなのです。

🍃 「軽さ」への欲望と、その哲学的代償

デカフェの流行の理由はいろいろあるでしょうが「軽さ[への欲望があることは否定できません。例えば、以下のようなものがあげられます。

  • デカフェを選ぶ心理には、「軽くなりたい」という欲求がある
  • 身体を軽くする(眠れない、胃に重いなど)
  • 心を軽くする(罪悪感のない飲み物)
  • 社会に軽く合わせる(健康的、意識高い、周囲への配慮)

けれど、「軽い」には二つあります。
身も心も軽くなることと、軽薄になること
どちらも同じ”light”ですが、意味はまったく違います。
現代はこの「軽さの分岐点」に、気づかないまま立っている人が多いとくまは思っています。

📦 デカフェはファッションか、それとも信仰か

くまのように、かつて流行を「仕掛ける側」にいた人は知っているのです。
人は「選んでいるようで、選ばされている」という、その現実を。
デカフェもまた、

メディアが作る「健康的ライフ」
商品としての「静けさ」「整ったわたし」
SNSでの「好ましい選択肢」

等々として「拡散されて」いるのです。
そして、それはある意味、同調圧力的な信仰にも似た安心をもたらすのです。

⛩️ 「嗜好」から「思想」へ 飲み物に宿る選択の重さ

私たちはもはや「嗜好品を楽しむ」だけでは済まされなくなっているのです。 嗜好品は、思想の容れ物となったといえるからです。

  • その一杯の紅茶が、社会に対する態度であり、
  • 一杯のコーヒーが、自分の生き方の表明になる

そんな時代に、デカフェは何を象徴しているのか?
それは、おそらく「脱・刺激」「脱・衝動」という「作られた美学」であり、 ある種「お仕着せの社会的制御」の美名化であるといえます。


🍵 茶の湯と「つくりこまれた簡素」

  • わび・さびは「簡素で自然な佇まい」に見えるけれど、 実際には計算され尽くした演出
  • 茶室の柱一本、掛け軸の文字、茶碗のゆがみ
    すべてが贅の結晶であり、様式美の極致なのです。

    つまり、「自然に見せるための不自然」こそが茶の湯の本質なのです。

☕ デカフェと「健康に見せるための選択」

  • 無添加・オーガニック・ノンカフェインというラベルの下で、実は高度にテクノロジー化された製造選別が行われています。
  • 「安心・ナチュラル」というパッケージは、「人工的に作られた“安心”」であることも多いのです。

これらもまさに、自然を装うための意図された不自然といえるでしょう。

🎭 共通点の本質 「“演出された自然”への信仰」

どちらにも通じるのは以下のようなものでしょう。

  • 無意識のうちに、不自然に整えられた静けさ」に憧れる人間の心理
  • 「あえてそう見せる」ことで得られる安心と尊さ

そしてこれが最も重要なのですが、その裏にあるコストと構造への目を逸らす仕組みです。


🧸 くまのひとこと

ほんとうの「わび」は、何も持たないことではありません。
何も持たない「ように見せる」ことに、全力を尽くすことです。
それが人間の、不思議で、どこか愛おしい執着なのだとくまは思うのです。

自然でありたいと言いながら不自然にしがみつく。この人間の愚かしさに微笑みを禁じ得ないのです。


🎭 「不自然の美学」における敬意のライン

くまが考えるのは、単なる「好み」の問題ではありません。
それは“不自然”という演出に、どれほどの覚悟と重みがこもっているか?その一点を見ている、極めて本質的な美意識なのです。

🍶 例 茶道具と敬意の違い

  • 一山いくらの量産茶碗で「わびさび」を気取られても、そこに重さはない
  • 一方で、何ヶ月も悩み抜き、年収に匹敵する品を手にした者には、 その人なりの覚悟と物語がある
    → その違いが、「不自然」かどうかではなく、不自然にかけた重みの違いを生むのです。

☕ デカフェと「安易さ」の侮蔑

くまが感じるのは、

  • 「なんとなく健康そうだから」
  • 「皆が飲んでるから」
  • 「カフェイン抜いた方がオシャレだから」
    といった消費されるだけの「選択」に、 「重み」も「敬意」も感じられないということです。誰でも手にできる選択が悪いのではなく、 誰でも手にできることを誇ってしまう態度──そこに侮蔑が生まれるのです。

もちろん、妊娠中のパートナーにデカフェを淹れてあげる、出産後のお祝いにデカフェをあげる、というようなのはくまも微笑ましいと思うし、尊重しています。


✨ 価値とは、選ぶ理由の“重さ”である

不自然を演出するなら、命を削るように演出してほしい。
中途半端な演出に、くまは敬意を抱けません。

繰り返しになってしまうけれども、大事なことなのであえてそれを恐れずに書いてみます。

くまは不自然の美学は嫌いではありません。でもその重み次第かな、とも思うのです。それこそスーパーや安売り店で一山いくらで売られているような安っぽい不自然で気取る連中には侮蔑感しかないけど、値段はともかく自分の年収を一品にかけるような不自然さは決して嫌いではないし、否定もしないし、むしろ尊重します。

「選択するデカフェ」に対してどうもくまが好意的になれないのは、それが一山いくらに見えるからなんだろうと思うのです。誰でも手にできる手軽さがどうにも敬意を遠ざけるのです。