第7代ベドフォード公爵夫人、アンナ・マリア・ラッセル (1)

Anna Maria, Marchioness of Tavistock1820

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アンナ・マリア・ラッセル

アンナ・マリアの生い立ち

アンナ・マリア・ラッセル(Anna Maria Russell / 1783-1857)は1783年9月3日に11人兄妹の3番目の長女として誕生しました。父はアイルランド最高司令官に従事し、外交官としてウィーンやベルリンにも派遣されていました。そして、母は当時の英国王ジョージ3世妃、シャーロット王妃の寝室女官を務めていました。このようにかなり裕福な貴族の家で育ちました。

1808年8月8日、24歳で第6代ベドフォード公爵ジョン・ラッセル( John Russell, 6th Duke of Bedford)の長男タヴィストック侯爵フランシス・ラッセル(Francis Russell)と結婚、1839年にフランシスが公爵位を継ぎ、ベッドフォード公爵夫人アンナ・マリア・ラッセル (Anna Maria Russell, Duchess of Bedford)となります。

Anna Maria, Marchioness of Tavistock1820
Anna Maria, Marchioness of Tavistock1820

1837年54歳にしてヴィクトリア女王(Queen Victoria)の寝室女官に命じられます。1837年といえばヴィクトリア女王が即位した年です。まだ18歳だったヴィクトリア女王を身近な大人として見守り、仕えることが求められていたのだと思います。ヴィクトリア女王も母親のような年齢のアンナ・マリアのことを大層慕っていたとされています。

女官辞任後は夫も知らない多くの慈善活動を行い1857年にアンナ・マリアが亡くなった時にはその活動への多大な感謝と深い哀悼が捧げられたそうです。ちなみに上の絵がキリン『午後の紅茶』のモチーフになっているのではないかとくまは思っています。

queen Victoria18
Queen Victoria18

産業革命と食事の時間

1840年頃、ベッドフォード公爵とアンナ・マリアは住まいである大邸宅ウーバンアビー(Woburn Abbey)で毎日大勢の客をもてなす日々を送っていました。記録によるとウーバンアビーでもてなされる客は年間1万人を超していたと言われています。

Woburn Abbey (Woburn Abbey HPより)
Woburn Abbey (Woburn Abbey HPより)

当時の食事は、朝食(10時頃)と夕食(20時頃)の1日2回でした。しかも、この頃のイギリスは産業革命によって人々の生活習慣が変わりつつあった時期でもあり、特に家庭用のランプの普及によって、人々は日が暮れた後も活動できるようになりました。このランプの普及が夜の社交を増やし、時間も遅くなるようになり、結果的に夕食の時間が遅くなってしまいました。


Afternoon Teaの始まり

アンナ・マリアの憂鬱

アンナ・マリアは毎日、昼下がりの時間が憂鬱でした。なぜならその時間にはいつも空腹に苦しめられていたからでした。そこでアンナ・マリアは召使に午後3時から5時頃に、紅茶にサンドイッチや焼き菓子を添えて持ってくるようにさせました。これが彼女の習慣となり、最初は一人だけで午後のお茶の時間を楽しんでいたのですが、次第に友人たちをこの午後のお茶に誘うようになりました。

昼下がりのお茶会

当時のイギリスは、ヴィクトリア女王の下で、貴族の作法やマナーが大変重んじられた時代でした。なので、いつでも好きなように食事ができるわけではなく、またこうした慣習は簡単には変えられないものでありました。しかし、アンナ・マリアの始めたお茶会は貴婦人たちから大好評を得て、男性たちが娯楽で出かけてしまうと、ディナーの部屋とは異なる自身の寝室近く、ドローイングルームで楽なドレスでコミュニケーションすることが目的のお茶会が開かれたのです。サンドイッチ、スコーン、ケーキなどのティーフードを添えて供されるようになりました。

Blue Drawing Room (Woburn Abbey HPより)
Blue Drawing Room (Woburn Abbey HPより)

1859年の記録ではウーバンアビーには年間1万2千人の人がAfternoon Teaに招待されたと記録されています。

そして王室へ

さらにアンナ・マリアが側近を務めていたヴィクトリア女王もこのアンナ・マリアのもてなしを大いに気に入り、1880年代には自身も宮廷内で王室主催のAfternoon Teaを始めるようになりました。こうして、アンナ・マリアの始めた午後のお茶の習慣は、普通なら既存の食事習慣に逆らうのはタブーとされるようなこの時代に批判されるどころか”Afternoon Tea”としてイギリスの慣習として受け入れられることとなり、定着していきました。

“アンナ・マリアのAfternoon Tea”という聖なる儀式

ヴィクトリア女王の生母であるケント公夫人の女官であるレディ・フローラ・ヘイスティングス(Lady Flora Hastings)の妊娠スキャンダルに巻き込まれ、後に誤解は解けたが、彼女の不用意な発言が原因の一つであったとされ、しばらくの間批判に晒されたことがあったりはしたものの、公平で親切で優しい性格で周りにも慕われていたお人柄があったからこそ”アンナ・マリアのAfternoon Tea”がイギリスの食事習慣に受け入れられた大きな理由のひとつであることは間違いなさそうです。

そしてこれが上流階級へ広がっていき、やがて余裕のある中流階級にも広がっていきました。そして、現在では広く一般的になっています。

ちなみにアンナ・マリアのAfternoon Teaでは、インドのアッサムや中国のラプサンスーチョンが主に楽しまれていたことが、当時の招待状や、茶園からの請求書などの貴重な資料がらわかっているそうです。また、1898年のラッセル家の回顧録に「聖なる儀式Afternoon Teaは、1857年に他界した我が家系の第7代ベドフォード公爵夫人 (Duchess of Bedford)によって考案された」と記載されているそうです。