contentsプロローグ
18世紀から19世紀にかけて、紅茶はただの嗜好品ではありませんでした。それは国家の財政を支え、密輸の標的となり、時には命を脅かす偽装品の媒体ともなったのです。そして、その裏側にいつもそっと寄り添っていたのが、美しく装飾された「紅茶缶」でした。
密輸の黄金時代と紅茶缶
戦略物資としての紅茶
18世紀末から19世紀初頭、紅茶はヨーロッパにおいて金と同等かそれ以上の価値を持つ「戦略物資」でした。特にイギリスでは茶への関税が非常に高く、100%を超える高率の関税(紅茶税)が課されていました。だから正規ルートで紅茶を楽しめる人はごく一部に限られ、正規ルートで輸入された紅茶は富裕層の特権と化していました。その結果、紅茶は密輸の対象となりました。紅茶への過酷な課税制度が、結果として国民の多くを「密輸紅茶」の愛飲者に変えてしまったのです。
密輸された紅茶
密輸は単なる経済活動ではなく、生活に直結する手段でした。紅茶はオランダ、フランス、さらには中国との非公式な取引を通じて手に入れられ、イギリス国内へと運び込まれました。
その際、よく使われたのが紅茶缶でした。一見すると無害な嗜好品の容器ですが、実際には中に密書、宝石、紙幣、あるいはアヘンまでもが詰め込まれていたのです。検閲の目を逃れるための隠し場所として、紅茶缶は実に「理想的な顔」をしていたと言えるでしょう。
たとえば、イギリス南部ケントやサセックスの沿岸部では、「走り屋(smuggler)」たちが紅茶の缶に違法品を隠し、荒天を縫ってボートで輸送していたという記録も残っています。紅茶は乾物で軽く、見た目もばれにくいため、格好の偽装素材だったのです。
偽装と毒物 ~19世紀のもうひとつの紅茶戦争~
紅茶の需要が急激に高まる中で、その質を偽る行為も横行しました。とくに19世紀初頭には、以下のような危険な実態があったと記録されています。
- 緑茶の着色問題:緑茶は時間が経つと褐色になるため、見た目を良くするためにクロム緑(酸化クロム)や硫酸銅などの有害な着色料が使われました。
- 混ぜ物と再利用:既に煎じられた茶葉を乾かし、食紅や鉄粉を加えて「新品」に見せかけて再販売する、いわゆる「リサイクル偽茶」も一般的でした。
- 重金属と薬品:一部の業者は、鉄の硫酸塩や鉛系顔料を使い、色と味を人工的に整えたのです。
これらの問題に対処するため、1875年にイギリス食品・薬品法(Food and Drugs Act)が制定されました。これは紅茶を含む食品・飲料への初の包括的な安全規制でした。
クロム緑(酸化クロム)
酸化クロム(特に三価クロム、Cr₂O₃)は、19世紀の茶葉偽装で実際に使われた顔料で、鮮やかな緑色をしていることから、古茶や低級茶を新鮮で高級なお茶に見せる目的で「緑茶」風に加工する際に混入されました。
なぜ怖いのか
Cr₂O₃は一応「耐熱性も高く安定している顔料」なのですが、食品用途ではもちろん不適格です。微細な粒子であれば、吸入・経口摂取時に毒性のあるクロム化合物へ変質するおそれもあります。特に酸化状態や環境条件(胃酸など)によっては、六価クロム(Cr⁶⁺)に変化する可能性があります。これは強い発がん性があります。
歴史的背景
19世紀末、特にヨーロッパでの紅茶・緑茶の需要増加とともに、「着色茶」「香料茶」の偽装品が大量に出回りました。
たとえば…
- 低品質な茶葉に色粉(酸化クロム・プルシアンブルーなど)をまぶす
- 香りのない茶に人工香料を加える
- 乾燥を繰り返した古茶に見た目だけの「鮮度」を演出する
といった「見た目勝負の偽装」が横行していたのです。
紅茶の人気の秘密
この「着色茶偽装問題」をきっかけに、ヨーロッパでは 「紅茶=信頼できるもの」「緑茶=偽装のリスクが高い」というイメージが一時期強まったため、19世紀末には「紅茶の人気」が逆に急伸する転換点にもなったのです。
実際の規制と対応
後追いの法整備
19世紀後半には、イギリスやドイツでこれらの茶葉の品質偽装に関して食品安全法や「貿易標準法」が整備されていきます。
イギリスでは「食品偽装禁止法」(Food Adulteration Acts)により、1875年以降は食品への有害物質添加が順次規制されます。それでも農村部や非正規ルートの流通では20世紀初頭まで断続的に使用されていたという記録もあります。
健康被害
1840年代、イギリスでは「健康被害を出した中国茶」の報道が増え、1843年の下院報告書には「粉砕された茶葉を粘土と着色料で固めた偽茶」が市場に流通していた事例が紹介されました。
華やかな缶に秘められた欺瞞と革新
さて、話を紅茶缶に戻しましょう。紅茶缶は単なる保存容器ではなく、密輸、偽装、欺瞞、そして時代を経て「信頼と美」の象徴へと変化した証人でした。やがて缶の外装は美しくなり、パッケージングも安全性とマーケティングを兼ね備えるものへと進化していきます。
しかし、その変化の裏には、かつて缶が隠していた闇と、それを乗り越えてきた社会の歩みがあるのです。紅茶缶を眺めるとき、そこに微かに漂う「もうひとつの歴史」を感じることができれば、それは私たちにとって小さな文化の贈り物になるでしょう。
摘発された密輸の一例
1790年代にドーバー海峡で摘発されたオランダ船には、数百の紅茶缶が積まれており、その中に宝石とフランス紙幣が隠されていたという記録が残っています。これらは当時の貴族や革命派との取引に関与していた可能性があり、紅茶缶がただの道具以上の意味を持っていたことを物語っています。
日本での類似事例と「紅茶の色」幻想
実は明治期の日本でも、外国産紅茶の模倣や見た目を重視した「着色茶」の製造が行われていました。1870年代の『製茶指南』には、安価な茶葉に色粉を混ぜて「外国向け」として出荷する製法が紹介されています。これらは主に中国や東南アジアへの輸出用でしたが、輸出先での評判は芳しくなく、のちに国際問題にも発展します。
また、戦後の日本では一時期「赤い紅茶(bright)」が良いとされ、発酵不十分な茶葉を着色する試みが密かに行われていたという話も伝えられています。
