キャフタ条約

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概要

1727年に清とロシア帝国が結んだ国境通商条約です。モンゴル高原のキャフタ(露)/買売城(清)に通商拠点を設け、キャラバンによる陸路の茶取引(主に団茶・緊圧茶)を制度化しました。ロシア側の茶文化形成を加速させた転換点になる条約です。


詳解

キャフタ条約は、清朝とロシア帝国の国境画定と通商手続を定めた条約で、最大の実利は茶の越境交易を公認・規格化した点にありました。場所は現在のモンゴル国境付近、清側の買売城(マイマイチェン)とロシア側のキャフタが対をなし、ここで通関・検量・課税・仲介が行われました。以後、茶はここを核心にラクダ隊のキャラバンでイルクーツク、さらにサンクトペテルブルクへと運ばれるようになります。

条約時点でロシアに入った茶の主流は、保存と輸送に強い団茶・緊圧茶(蒸青・黒茶系)です。板状の茶を削って煮出し、砂糖を加える飲み方が広まり、後世の「ロシアンティー」の基層を形作りました。寒冷地での保管に耐える固形茶は、物価の安定・計量の容易さから一部地域で価値保存財(貨幣代替)としても流通しました。

条約はまた、広州一港体制(カントン・システム)下で海路が制約を受ける中、陸路の「第二の大動脈」を確保した点で地政学的に重要です。清側は国境管理を強化しつつ銀流出を抑え、ロシア側は毛皮・金属・織物などとの等価交換で内需を満たしました。結果として、18世紀後半〜19世紀半ばのロシアにおける中国茶依存を強め、宮廷から都市市民まで茶の消費層を一気に拡大させます。

19世紀半ば、アイグン条約・天津条約・北京条約を経て沿海の開港が進むと、キャフタ経由の独占的地位は相対的に低下してしまいます。さらにシベリア鉄道(1890年代〜)の整備と、インド・セイロン由来の紅茶海路の台頭により、ロシアの茶消費は散茶・紅茶中心へと移行しました。それでも、団茶を基調とする「濃い煮出し+甘味」という味の骨格は、ロシア的飲み方の記憶として長く残っているのです。


🧸くまの一言

条約は線を引くだけでなく、味の通り道も決めます。キャフタはその好例です。