聞く紅茶教室
講義時間:約11分
第50講 AIは、職人の記憶を保存する
昔、職人の技術は、「人から人」へ伝えられていました。
見る。
真似する。
何年も横で学ぶ。
失敗する。
そして、ようやく少しずつ身についていく。
つまり職人技とは、本来、「身体の中にある記憶」だったのです。
紅茶作りも同じでした。
どれくらい萎凋するか。
どこで発酵を止めるか。
火入れをどう調整するか。
その判断は、長年の経験によって支えられていました。
特に難しいのは、「言葉にできない感覚」です。
職人たちは、時々こう言います。
「香りを見て止める。」
もちろん、香りは「見る」ものではありません。
けれども、それくらい身体感覚として、一瞬で判断しているという意味なのです。
つまり職人技とは、単なる知識ではなく、「積み重なった感覚」でした。
ところが現在、その感覚を、少しずつ「記録」しようとする動きが始まっています。
AIです。
たとえば現在、日本では、発酵制御のデータ化研究が進んでいます。
温度。
湿度。
発酵時間。
茶葉温度。
香気成分。
そうしたものを細かく記録し、「どういう条件で、どういう香りになったか」を蓄積する。
つまり、「職人の経験」を、消えない形で保存しようとしているのです。
ここで重要なのは、AIは「ゼロから技術を生み出している」わけではないという点です。
先にあるのは、職人の存在です。
AIは、その膨大な経験を、「比較可能な形」へ変換し始めている。
つまりAIは、「職人を消す存在」ではなく、「職人の記憶を保存する存在」になり始めているのです。
これは、実はとても大きな意味を持っています。
なぜなら現在、多くの伝統産業では、「継承」が大きな問題になっているからです。
職人が高齢化する。
後継者が少ない。
技術が失われる。
これは紅茶だけではありません。
酒。
味噌。
和紙。
陶芸。
さまざまな分野で、同じ問題が起きています。
そして職人技ほど、「言葉だけでは伝えにくい」。
だから昔は、「見て覚えろ」と言われました。
けれども現在は、その「見えない感覚」を、少しずつ記録できるようになってきています。
どの瞬間に温度を変えたのか。
どの香りで発酵を止めたのか。
どの条件で失敗したのか。
それをデータとして残せる。
つまりAIは、「人間の経験を拡張する記録装置」、になり始めているのです。
ここで少し不思議なのは、AIが発達すればするほど、逆に「職人の重要性」が見えてくることです。
なぜなら、AIが学ぶには、最初の教師が必要だからです。
つまり、
誰の技術を学ぶのか。
何を良いとするのか。
どの香りを「美しい」と判断するのか。
そこには、必ず人間の価値観が入ります。
つまりAIは、「完全に中立な存在」ではありません。
人間の文化を学びながら、成長しているのです。
だから未来の職人は、少し変わるのかもしれません。
昔のように、「感覚を秘密にする職人」ではなく、
感覚を記録し、
共有し、
AIと一緒に次世代へ残していく職人。
そんな存在が増えていくのかもしれません。
そして、ここで面白いことが起きます。
AIによって記録が増えれば増えるほど、人間は逆に、「記録できないもの」を意識し始めるのです。
なぜ、その人の紅茶だけ、なぜか記憶に残るのか。
なぜ、その一杯だけ、空気が違うのか。
なぜ、人によって「温度」が変わるのか。
そこには、まだ完全には数値化できない、人間らしさが残っています。
だから未来とは、
AIが人間を置き換える時代ではなく、
人間の記憶を、AIと一緒に未来へ運んでいく時代、なのかもしれません。
くまのひとりごと
ベテランの職人の技術を、
AIがコピーしていく。
そう聞くと、
人間の領域を、AIが奪っていくように感じる人もいるかもしれません。
でも、もし、
「ベテラン職人に、AIが弟子入りする」
と考えたら、どうでしょうか。
師匠は、あくまでも人間です。
AIは、とても優秀な弟子。
人間が長い時間をかけて生み出したものを、
AIが記憶し、学び、未来へ残していく。
そんな関係なのかもしれません。
もしかすると未来とは、
人間とAIが、
一緒に文化を守っていく時代なのかもしれません。
そして、そこに一杯のおいしい紅茶があれば、
たぶん、それだけで十分なのではないかと、くまは思います。