聞く紅茶教室
講義時間:約12分
第73講 紅茶と物語世界(3)
3.紅茶と詩
「午後」の感情が詠まれるとき
回想と残響
紅茶は、
詩の中では特別な意味を持つ飲み物です。
ワインが陶酔を表し、
コーヒーが覚醒を表すなら、
紅茶は、
「回想と余韻」
を宿す飲み物でした。
特にイギリスの詩では、
紅茶は単なる嗜好品ではありません。
それは、
古い日常の記憶。
静かな時間。
失われつつあるもの。
を呼び戻す装置として描かれていきます。
紅茶は、
「過去を静かに思い出すための飲み物」
だったのです。
ジョン・ベッチェマン
二十世紀イギリスの詩人、
ジョン・ベッチェマン。
彼の作品には、
「紅茶を恋しがる感情」
が何度も現れます。
有名な詩
“A Nice Cup of Tea” の中には、
“I long for the warmth of a nice cup of tea”
という一節があります。
「ああ、温かい紅茶の一杯が恋しい」
という意味です。
けれどこれは、
単に喉が渇いたという話ではありません。
ここで恋しがられているのは、
安らぎ。
静かな午後。
かつて存在した秩序。
そのものなのです。
紅茶は、
「失われつつあるイギリス」
を思い出すための象徴だったのです。
“tea” という音
紅茶が詩に向いている理由のひとつに、
言葉の響き
があります。
“tea”
という音は、
短く、静かに終わります。
コーヒーのように広がらない。
ワインのように重く響かない。
ふっと息を抜くように終わる。
だから“tea”という言葉には、
午後の静けさ
が宿りやすいのです。
紅茶は、
音そのものまで「静かな飲み物」だったのかもしれません。
T・S・エリオット
T・S・エリオットは、
直接「紅茶」を多く詩に書いたわけではありません。
けれど彼の作品には、
午後。
静かな部屋。
窓辺。
黄色い霧。
といった風景が繰り返し現れます。
そこには、
「紅茶的な空気」
があります。
特に有名なのが、
“yellow fog”
黄色い霧。
これは、工業化時代のロンドンに実在した、
石炭の煤煙で濁った霧です。
外は冷たく、灰色。
けれど室内には、
紅茶の湯気がある。
その対比が、
「近代都市の孤独」
を静かに浮かび上がらせるのです。
紅茶そのものを書かなくても、
紅茶の気配
だけで詩は成立する。
それが、
イギリス文学の面白いところです。
日本でのモダニズム
紅茶と詩の関係は、
イギリスだけのものではありません。
日本でも、大正から昭和初期にかけて、
紅茶は
「新しい時代の空気」
を象徴する飲み物として現れました。
当時の日本には、
抹茶。
煎茶。
という茶文化がすでにありました。
けれど紅茶は、
そこへ「異国の午後」を持ち込んだのです。
『猫町』
萩原朔太郎の『猫町』では、
喫茶店の紅茶や洋菓子が、
単なる飲食ではなく、
都市の幻想。
異国趣味。
夢と現実の境界。
を象徴するものとして描かれています。
そこにある紅茶は、
「日本にありながら、日本ではない空気」
を作り出しているのです。
つまり紅茶は、
現実から少しだけ浮かび上がるための装置
だったのです。
犀星と白秋
室生犀星や北原白秋の作品にも、
洋風サロン。
午後の窓辺。
紅茶とケーキ。
の情景が繰り返し登場します。
彼らにとって紅茶は、
単なる「西洋風の小道具」ではありません。
それは、
「まだ手に入れていない未来」
の象徴でした。
だから当時の日本文学に登場する紅茶には、
午後の光。
静かな部屋。
洋風の器。
都会への憧れ。
が、ほとんど必ず添えられています。
紅茶は、
「輸入された時間」
だったのです。
ノスタルジーと未来
イギリスで紅茶は、
「失われた過去を思い出す飲み物」
として詩に現れました。
けれど日本では逆に、
「まだ来ていない未来を夢見る飲み物」
として描かれていきます。
つまり紅茶は、
過去。
未来。
その両方を照らすことのできる、
珍しい飲み物だったのです。
だからこそ紅茶は、
詩の中で長く生き続けてきたのかもしれません。
今回の紅茶のひとこと
紅茶は、
時間を止める飲み物ではありません。
けれど、
「時間を少し静かに感じさせる」
力を持っています。
だから人は、
午後の光の中で、
そっと紅茶を詩に書きたくなるのかもしれません。
くまのひとりごと
紅茶には、
「朝」の飲み物という顔もあります。
けれど不思議なことに、
文学や詩の中で紅茶が現れるとき、
そこにはしばしば、
「午後」
の光があります。
少し静かな時間。
窓辺。
遠くを見る気持ち。
今回は、
そうした「詩の中の紅茶」のお話でした。