紅茶と労働文化(2) 職場のティータイムとその変容

🎨 紅茶と文化

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📘第4章 紅茶と職場文化の多様性──階級を超える一杯

紅茶は、イギリス社会において長らく労働者階級のエネルギー源として語られてきましたが、それだけではありません。むしろ、時代が進むにつれ紅茶は、あらゆる職場、あらゆる階級の間で「共有される文化」として根を張っていきます。

🏭 工場・現場・オフィス、それぞれの紅茶風景

かつての工場では、大鍋で紅茶を煮出し、ティーブレイクの時間になると作業員たちがポットやマグカップを手に集まりました。粉っぽい空気、油の匂い、機械の騒音の中で、紅茶はほんの一瞬、人間らしさを取り戻す時間を提供してくれたのです。

一方、ホワイトカラーのオフィスではどうだったでしょう。書類と電話とタイプライターに囲まれた職場でも、お茶係(tea lady)の存在が長らく欠かせませんでした。ワゴンで紅茶やビスケットを配るお茶係は、単なる配膳人ではなく、職場の潤滑油であり、同僚たちの感情の受け皿でもありました。

病院、学校、役所、鉄道、軍──それぞれの職場で紅茶は少しずつ形を変えながらも、労働と紅茶は分かちがたく結びついていたのです。

👩‍🍳「ティー係」は誰が担うのか

興味深いのは、「誰が紅茶を淹れるか」ということが、しばしば性別や階級に関する象徴的役割を帯びる点です。

・男性中心の現場では、最も若い作業員が“ティー係”を任されることが多く
・女性が多い職場では、年長の女性が自然にお茶を淹れる存在と見なされることがありました。
・中には「上司はティー係をしない」という暗黙のヒエラルキーも存在します。

こうして紅茶は、単なる飲み物ではなく、職場内の力関係や信頼関係を映し出す小さな鏡にもなっていたのです。

🫖 紅茶は職場の「共通言語」だった

違う部署、違う職種、違う階級──しかし「お茶にしましょうか?」という言葉が交わされるだけで、そこに小さな安心と共同体感覚が生まれました。

紅茶は話題のきっかけであり、緊張を和らげる潤滑剤であり、沈黙を共有する手段でもありました。特にストレスの多い現場では、紅茶の存在がメンタルヘルスの一部として機能していたとさえ言えるかもしれません。

🍵 無人化と紅茶文化の衰退

現代では、業務の自動化・効率化の進行にともない、お茶係の廃止や、ティーブレイクの短縮が進みました。個別包装のティーバッグと紙コップ、無人の給湯室。紅茶は依然として飲まれていますが、その背景にあった「一緒に飲むこと」の文化は次第に姿を消しつつあります。

かつては一緒にポットを囲んでいた仲間が、今ではそれぞれのデスクで黙々と紙カップを傾けている。そんな光景に、紅茶文化の変遷と、現代労働の孤立性の一端を感じることもあるのです。

📘第5章 労働争議と紅茶──連帯の象徴としての一杯

紅茶は労働者の日常に根差した飲み物ですが、時にそれは抵抗の象徴としても機能しました。イギリスの長い労働運動の歴史の中で、紅茶は労働者たちの団結と連帯を静かに支える存在だったのです。

✊ ストライキの現場に湯気立つ紅茶

1980年代、サッチャー政権下で吹き荒れた民営化と緊縮政策の嵐。炭鉱労働者の大規模ストライキや鉄道・郵便の労働争議が全国に広がりました。そんな中、ストライキのピケライン(picket line)では、冷え込む朝に支援者が紅茶を差し入れる光景が繰り返されました。

ポットに淹れた紅茶は、単なる温かい飲み物ではなく、「あなたたちは一人ではない」「この闘いは正当なものだ」という無言のメッセージでした。

☕ フラスクと連帯──持ち寄る文化

イギリスでは昔から、フラスク(保温ポット)に入れた紅茶を持ち寄る文化がありました。ピクニックだけでなく、抗議活動、労働集会、ストライキにもその文化は活きていました。

「自分の分」としてでなく、「誰かの分もあるだろう」というささやかな共同体意識が、この一杯の中に込められていたのです。

🧺 「お茶係」は支援の象徴でもあった

ストライキ中、労働者の家族や地域住民が「お茶係」となり、手作りのサンドイッチや温かい紅茶を現場に届けることもありました。

これは単なる炊き出しではなく、階級を超えた連帯の表現であり、時に女性たちの政治的参加の形でもありました。
まさに「紅茶を通じて社会と繋がる」実践だったのです。

🎥 メディアと紅茶──イメージの力

映画やドキュメンタリーでも、こうした場面はしばしば象徴的に描かれます。たとえば映画『ブラス!』(Brassed Off)では、炭鉱労働者の苦悩を描く中で、ティータイムがユーモアと人間性の最後の砦として機能していました。

「紅茶を差し出す」という行為は、時に政治的な立場以上に、人間らしさへの信頼表明として観客に受け止められたのです。

🍽️ 一杯の紅茶は何を守ってきたか

紅茶は武器ではありませんでした。しかし、無言の抵抗、沈黙の団結、支え合いの意志──そうしたものを伝える媒体となることはできました。

そして、労働争議の最前線においてさえ、紅茶は「一緒に飲むこと」の価値を失わなかったのです。

📘補足章 日英における“お茶係”文化の比較──誰が紅茶を淹れるのか?

「紅茶を誰が淹れるのか?」──このシンプルな問いは、実は職場の階層意識、性別役割、文化的価値観の違いを鋭く映し出します。
この章では、イギリスと日本の職場における“お茶係”文化の違いを比較しながら、そこに潜む社会構造を読み解いてみましょう。

🇯🇵 日本──若い女性が担う「お茶くみ」文化

戦後から1980年代頃まで、日本の多くのオフィスでは、紅茶やコーヒーではなく、緑茶が中心でしたが、「お茶くみ」という言葉に象徴されるように、若い女性社員(特に新卒一般職)が上司や来客のためにお茶を淹れることが慣習とされてきました。

配膳や片付けを含むこの役割は「女性の気配り」とされ、しばしば育成の一部とも位置づけられていました。一方で、男性は淹れない、年配女性も淹れないという暗黙のルールが存在し、性別役割分担が明白でした。

この慣習は、性差別的慣行の象徴として批判されるようになり、2000年代以降は急速に廃れていきます。現代の日本では、お茶は給湯室のセルフサービスが主流となり、「お茶くみ」という言葉すら死語になりつつあります。

🇬🇧 イギリス──「信頼される人」が紅茶を淹れる

一方、イギリスの職場文化では、紅茶が中心であることは言うまでもありませんが、誰が淹れるかについては以下のような傾向があります。

  • 工場や現場では最も若い作業員が任されることもありますが
  • 多くの職場では経験豊富な年長の女性職員が、自然と「ティー係」のような立場になることが多く
  • 彼女たちが淹れる紅茶は、「あの人の紅茶は美味しい」と職場内の信頼や敬意の現れとされました。

この文化では、「紅茶を淹れること」は必ずしも下位の仕事ではなく、むしろ職場の中心を支える存在として尊重される場合すらあるのです。

観点日本イギリス
担当者若手女性(新入社員)年長女性/経験者
意識される階層年功序列・性別経験・信頼
お茶の種類緑茶/インスタントコーヒーなど紅茶(ミルクティー中心)
社会的意味性別役割/上下関係の象徴共同体意識/信頼の象徴
現在の傾向セルフ式へ移行、慣習の廃止一部で継続、文化的継承

このように、「お茶を淹れる」という行為ひとつを取っても、その背後には文化的な価値判断や階級構造が色濃く反映されています。

🫖 紅茶を淹れるという「力」

最後に、この違いをまとめるならこう言えるかもしれません。

日本では、「お茶を淹れること」は“従属”の役割を意味し、
イギリスでは、「お茶を淹れること」は“信頼されること”を意味する──

この視点を踏まえると、「誰が淹れるのか」だけでなく、“どう淹れるのか”“なぜ淹れるのか”が、その社会の成り立ちや価値観を静かに物語っているのです。

📘第6章 現代社会と紅茶文化の行方──失われた“労働の紅茶”はどこへ?

21世紀の現代社会において、「紅茶と労働」はかつてのように親密な関係を保っているでしょうか?
この章では、紅茶文化の変遷と、現代における“労働の紅茶”の行方を追ってみます。

🧯安全第一、そして無味乾燥──ティーブレイクの空洞化

かつてイギリスの工場では、ティーブレイクが「リズムと連帯」を生み出す時間でした。しかし現在では、労働の形そのものが変化し、

  • シフト制・非正規雇用の拡大
  • オフィスワークの無人化・在宅化
  • 労働の“可視化”と“監視化”

といった流れの中で、ティーブレイクは「時間の無駄」として切り詰められる傾向にあります。給湯室のケトルは掃除用具入れと化し、かつて“ビルダーズ・ティー”で賑わっていた建設現場も、使い捨てカップと缶コーヒーが主流に。紅茶は“職場の中心”から“周辺の嗜好品”へと後退しつつあります。

🪑 働き方の変化と紅茶の消費スタイル

ティーポットを使って淹れる紅茶は、時間と空間の余裕がなければ成立しません。そのため、長時間拘束の労働者はカフェイン摂取の効率化(例:エナジードリンク)へと移行し、ティーバッグ文化も “飲みながら作業” する用途に最適化されてきました。

“労働の紅茶”が“作業のカフェイン”にすり替わったとも言えるでしょう。

🍵 紅茶が取り戻す「間」の時間

とはいえ、すべてが失われたわけではありません。近年では、

  • コワーキングスペースでのクラフトティー導入
  • 「お茶を淹れる」ことを自己管理とウェルビーイングに結びつける運動
  • 職場での「マインドフル・ティータイム」の提案

など、新しい形の「紅茶と労働の接点」が模索されています。

紅茶やお茶が再び「働く人間のための文化」として根を張るには、量ではなく質としての “間”の時間を再評価することが求められているのかもしれません。

🧶 おわりに──労働と紅茶の未来

一杯の紅茶は、労働の中に人間らしさを取り戻すための小さな抵抗でもありました。
それはストライキの中の紅茶だけでなく、オフィスでのほっとする瞬間、工場で仲間と交わす一言の背後に、いつも寄り添ってきたのです。

テクノロジーが進化し、働き方が多様化する中でも、「お茶でも淹れようか」という言葉が消えない限り、紅茶は人間の営みの中にあり続けるでしょう。

📘補足:「お茶を一緒に飲む」ということ──紅茶がつないでいた“人間性”

パンデミック以降、世界中でオフィスワークの無人化・在宅化が進みました。

本来、ホワイトカラーの職場は「人と人が知的に協働する場」であり、そこにこそお茶や紅茶は似合うものでした。しかし、今や多くの仕事がリモートで済まされ、ケトルの音も、ティーポットを置く手の動きも、職場から消えつつあります。

それは単なるスタイルの変化ではなく、人が人と共に働くという“当たり前の風景”の喪失を意味しています。

  • ティーブレイク中の他愛ない会話
  • 同じマグカップを使う日々の連帯
  • 紅茶を通して感じ取る、相手のちょっとした変化

そうした何気ない瞬間は、“人間らしさ”そのものだったのではないでしょうか。

「お茶でもどう?」という言葉が、かつては世界のいたるところで“人と人をつなぐ合言葉”でした。

今、私たちはその言葉をどれだけ耳にするでしょうか?

「昔の方がよかった」と一概には言えませんが、紅茶文化を始めとするお茶文化が繋いでいた “人間と人間のあいだ”が、気づかぬうちに切り離されているのなら、そのことに少しだけ立ち止まって、問い直してみる価値はあるはずです。

紅茶やお茶はただの飲み物ではありません。
それは、人が人らしくあるための「文化」であり、だからこそ、いま私たちはそれを語り継ぐ必要があるのです。