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第2章 戦場における紅茶~クリミア戦争から世界大戦へ~
🕊️クリミア戦争 紅茶がもたらす慰安の始まり
19世紀半ばのクリミア戦争(1853–1856年)では、イギリス軍兵士に対する紅茶の提供が戦場の慰安として注目され始めました。当初、戦地の衛生環境は劣悪で、紅茶の供給もままならなかった様相でした。例えば英軍病院の厨房では、肉を煮た大鍋でそのまま湯を沸かして紅茶を淹れていたため茶は泥水のようで飲めたものではなく、物資不足から湯も不足しがちでした。
フロレンス・ナイチンゲール率いる看護婦団がScutari(スクタリ/現在のトルコ・ウスキュダル)の軍病院に到着した当初、兵士たちは不衛生な環境で傷病に苦しみ、紅茶すらまともに口にできない有様でした。しかしナイチンゲールは病院の清潔と食事改善に努め、傷病兵に温かい飲み物を提供する環境を整えていったとされています。また、同時期に前線で活動した黒人看護婦メアリー・シーコールは、自ら設けた施設「ブリティッシュ・ホテル」で負傷兵や病人に食事や薬を提供し、ときには戦場へ赴いて「寒さに震える傷病兵に温かい紅茶やレモネードを振る舞った」との記録があります。
こうした献身により、紅茶は戦地の兵士に安らぎと活力を与える飲み物として存在感を示し始めたのです。クリミア戦争を契機に、紅茶の供給体制や品質管理の必要性が認識され、戦後の軍の食糧改革にも影響を与えました。実際、この戦争後に英軍の糧食制度は改善され、高エネルギーで栄養のある食事が模索されるようになりました。
以後、紅茶は軍隊の必需品として定着していくことになります。
☕第一次世界大戦 総力戦と紅茶の制度化
1914年に始まった第一次世界大戦では、紅茶が英軍兵士の士気と健康を支える基本物資として完全に組み込まれていました。英軍の標準的な一日口糧には紅茶が含まれ、兵士たちは「大量の紅茶」で喉を潤しました。
野戦の最前線でも、兵士は固い乾パン(ハードタック)を紅茶でふやかして食べるなど、紅茶は食事の一部となっていました。塹壕では安全な飲料水の確保が難しく、しばしば飲料水はガソリン缶を再利用した容器で前線に運ばれたため水に異臭がありましたが、紅茶はその匂いと味を隠して飲みやすくする役割も果たしていました。こうした事情から、前線の将兵にとって熱い紅茶は生理的・心理的に欠かせない「戦闘糧食」となっていたのです。 紅茶の供給は軍の制度としても整えられました。英軍では兵士一人ひとりに非常用の「鉄の配給(Iron Ration)」が支給されており、その中には缶入りの牛肉やビスケットとともに砂糖と紅茶の密封缶が含まれていました。この非常食は緊急時にのみ開封するものだったが、紅茶と砂糖がセットで組み込まれている点に、軍が紅茶をいかに重要視していたかが表れています。
また、前線では野営ストーブ(いわゆる「トミーコンロ」)や携行燃料を用いて兵士自ら紅茶を沸かす習慣が根付き、日常的に「ガンファイア(Gunfire)」と呼ばれる朝の一杯の紅茶で士気を高める伝統も生まれました。
イギリス陸軍が連戦連勝を続け、小競り合いの多い植民地戦争で他国の軍隊と比べ良好な戦績を収めた背景には、「酒ではなく紅茶を常用することで兵士の集中力と平静を保った」という指摘もあります。実際、当時の軍医総監アネスリー・デ・レンジーは「長い行軍や苛酷な環境下では、1杯のアッサム紅茶こそ兵士にとってこの上なく滋養強壮になる飲み物だ」と述べており、紅茶のカフェインや糖分が兵士の心身を刺激しつつ落ち着かせ、戦闘効率を高める効果があると評価されていました。
一方、総力戦となった英国本土では紅茶の供給にも影響が及んびました。大戦中盤になるとドイツによる通商破壊で船舶輸送が脅かされ、茶葉を含む嗜好品の入手が不安定になります。政府は1916年に食品省(Ministry of Food)を新設して国内の食糧管理に乗り出し、紅茶をぜいたく品とみなすべきか必需品とみなすべきか議論が起こりました。当時、栄養学者は紅茶のカロリー価値の低さから「食品ではない」として重要視しない意見もありましたが、労働者階級を中心に「紅茶は身分を問わず皆が楽しむ民主的な飲み物であり、ゆえに戦意高揚に資する必需品だ」との世論が強まったのです。
実際、長時間労働に従事する兵器工場の女工たちも紅茶なしでは過酷な勤務に耐えられないと訴え、日々の困難に立ち向かう庶民にとって紅茶一杯の慰めがいかに大切かが強調されました。 こうした声を受けて、英国政府は紅茶を戦略物資として保護する方針を打ち出します。1917年4月には「菓子類禁止令(Cake and Pastry Order)」でケーキなどの嗜好品を贅沢品と定めた一方、「紅茶は戦争のための武器である」と公式に位置づけられ、配給制の対象として特別に保護されました。
その結果、インド産紅茶の生産・輸入は政府管理下で拡大され、価格統制により国内供給が維持されることになりました。紅茶の価格の一部は政府により上限が設けられ、1917年末には市場流通する茶葉の90%に価格統制が加えられました。しかし需要超過による混乱は避けられず、ついに1918年には紅茶にも一般配給制(ラション)が導入されました。
この第一次大戦末期の紅茶配給は、後の第二次大戦で本格化する紅茶管理政策の先駆けとなりました。