紅茶史における制度(3)WWⅡ

Boiling vessel 🌏紅茶と世界
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🔥第二次世界大戦 紅茶は国家の命綱

1939年に第二次世界大戦が勃発すると、紅茶は英国民と軍隊にとってさらに戦略的に重要な物資となりました。政府は開戦当初から紅茶の備蓄と供給確保に奔走します。大戦開始時、英国は海外から大量の食料を輸入に頼っており、ドイツのUボートによる通商破壊は深刻な食糧不足を招いたのです。

1940年に入ると砂糖・バター・肉類などと並んで紅茶も一般家庭向けに配給制となり、成人1人あたり週2オンス(約56グラム)の紅茶が割り当てられました(1週間あたり約3杯分の計算)。この配給量は最低限ではありましたが、英国民に一日数杯の紅茶を確保させるための苦肉の策でした。さらに戦況悪化に伴い、政府は遂に紅茶そのものを世界中から買い占める大胆な措置に出ます。1942年、イギリス政府は「日本以外のあらゆる国から入手可能な紅茶をすべて買い上げる」という極秘方針を実行し、国家予算で莫大な量の茶葉を確保しました。この年、政府が重量ベースで調達した物資は弾丸・砲弾・爆弾に次いで紅茶が多かったとの推計もあります。

まさに紅茶は軍需品に匹敵する扱いを受け、「英国の秘密兵器」とまで称されました。 紅茶供給の確保と並行して、英国政府は品質管理や配給の制度化にも取り組みました。ロンドンではかねてから非常時に備えて茶商たちが在庫分散計画を立てていましたが、1941年5月のドイツ軍によるロンドン大空襲(ブリッツ)で紅茶の商取引拠点ミンシング・レーンが爆撃され、多くの茶商オフィスや在庫記録が焼失する被害を受けました。しかし幸いにも開戦直後までに約3万トンの紅茶が予めロンドン外の安全な倉庫に移されており、残る在庫も急遽全国500か所以上に分散疎開されたのです。

政府は直ちにロンドンの紅茶競売市場を停止し、食品省が国内すべての紅茶在庫を接収・一元管理する体制を敷きました。流通する茶葉は品質等級を上・中・下の3種類に単純化して配給されることになり、これは戦時中の等級統制(標準化)策の一環でした。さらに配給局は紅茶の有効活用を図り、「1ポンド(約454g)の茶葉で260杯分の紅茶を淹れること」との基準まで定めて国民に節約を促しました。

カップ一杯あたり約1.75gとやや薄めの計算になりますが、「一人用ティーポットで淹れたものは2杯分と数える」といった規定も設けられ、闇市対策も含め細かな指導が行われていました。こうした統制のおかげで「常に紅茶だけは手に入る」という状態が保たれたとも言われ、英国民にとって紅茶が日常の一部として機能し続けることは国家士気の維持につながったのです。 前線の将兵に対しても、紅茶の供給と品質には細心の注意が払われました。英国軍の戦闘配給は24時間分を一箱にまとめた「24Hour Ration(24時間レーション)」と、複数人分を木箱に詰めた「composite Ration(コンポジットレーション:通称コンポ)」が用いられましたが、いずれにも紅茶と砂糖、粉末ミルクがセットで含まれていました。特にコンポレーションには缶入りの紅茶粉末(砂糖・ミルク入りのインスタントティー)が用意され、お湯さえあればすぐ紅茶が飲めるよう工夫されていました。

紅茶葉自体はインドのアッサムやセイロン(現スリランカ)、アフリカ産などコクの強い黒茶葉のブレンドで、かつて主要だった中国茶は戦争で途絶したため用いられませんでした。将兵の間では「あの紅茶には性欲減退剤の臭化物が入っている」などと悪口を言われたほど味は強烈でしたが、それでも熱ければありがたく、冷めれば表面に膜が張ったと苦笑されつつも飲み干されていました。

紅茶に大量の砂糖を加えた甘い熱飲はエネルギーと安堵感を与え、しかも茶葉は乾燥重量が軽く携行しやすいため、軍用飲料として理想的だったのです。実際、ナポレオンが「軍隊は胃で進む」と言いましたが、彼の軍隊がワイン樽を運び歩いたのに対し、英国軍は軽い茶葉を持ち歩き、糖分たっぷりの紅茶で兵士を鼓舞したとも評されています。さらに紅茶は沸騰させた湯で淹れるため殺菌効果もあり、不衛生な戦地で蔓延しがちな赤痢などの感染症予防にも一役買っていました。紅茶を日常的に飲む習慣の広がりが英国民の健康改善と乳幼児死亡率低下につながったという指摘さえあります。

こうして紅茶は戦時の英軍兵士にとって欠かせない「命の水」となっていました。極端な例では、第一次大戦中、英国の兵士たちが機関銃を連射して銃身を真っ赤に過熱させ、その熱で湯を沸かして紅茶を淹れたという逸話も残っているほどです。また第二次大戦の北アフリカ戦線では、装甲戦闘車両の乗員が戦闘中にもかかわらず車外に出て焚火で湯を沸かし「ブリューアップ(お茶沸かし)」を始めてしまう例が相次ぎ、ドイツ軍の格好の狙撃目標になる問題が発生しました。

これに対し英国軍は思い切った解決策を講じ、戦車の車内に紅茶用の湯沸かし器(Boiling Vessel, BV)を標準装備することを決定しました。1944年以降の英国製戦車にはこのBVが搭載され、乗員は車内で安全に紅茶を淹れられるようになったのです。「ティーポット付き戦車」と揶揄されもしたが、乗員の士気と生存性を高める合理的な装備として戦後の戦車にも受け継がれ、現代の英国陸軍戦車でも改良型BVが現役で使われていますし、最新型が2024年12月に発表されています。戦車乗組員の中には紅茶淹れ係の「BV指揮官」を密かに任命する慣習まで生まれたといいます。

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🫖戦時下の英国社会と紅茶文化への影響

紅茶が「国民的飲み物」である英国にとって、二度の世界大戦は紅茶文化にも大きな試練と変化をもたらしました。まず、配給制による消費制限は国民の暮らしに直接影響しました。第二次大戦中の一般家庭では、紅茶は配給券なしでは買えない貴重品となり、限られた茶葉で日々の一杯をやりくりする工夫が求められました。例えば1回の茶葉で淹れる杯数を増やす(薄く淹れるか大きめのポットで淹れて数杯分出す)よう指導されたほか、紅茶かすを乾燥させて再度利用する人々もいたといいます。砂糖や牛乳も配給で不足するため、従来のように砂糖たっぷりのミルクティーではなく、やむを得ずストレートティーで我慢する家庭も多かったようです。喫茶店(ティールーム)やホテルのアフタヌーンティーサービスも戦時体制に合わせて縮小・休止を余儀なくされました。菓子やケーキが贅沢品として制限されたため、紅茶と一緒に供するティータイムの菓子類が手に入らず、名門ホテルの喫茶室が閉鎖されたり、庶民的なティールームが配給外の食品提供を禁じられて一時休業する例もありました。その代わりに、空襲で被災した市民や避難者には炊き出しとして紅茶が振る舞われ、紅茶は贅沢品ではなく「救援物資」「心の薬」として位置づけられる面が強まりました。

第二次大戦中のロンドンでは、ドイツ軍の空襲(ブリッツ)で瓦礫と化した街角に女性ボランティアの移動紅茶給仕隊(WVS、婦人奉仕団)が駆けつけ、炊き出しの紅茶やパンを振る舞いました。防空壕や被災現場では、炎上する建物の消火作業をよそにまず大鍋で湯が沸かされ、救援隊や被災者に熱い紅茶が配られたといわれています。瓦礫の山で紅茶をすする人々の姿は、やられっぱなしではない英国民の不屈の精神を象徴するものとして報じられました。紅茶は国家の団結の象徴ともなり、チャーチル首相も「紅茶は弾薬より重要だ」と述べ、海軍将兵には紅茶を無制限に支給するよう命じたと伝えられています。

また英国軍は占領下に苦しむ同盟国住民を励ますため、オランダに向けて1夜で7万5千個もの小さな紅茶袋入り爆弾を空中投下したこともありました。それらの袋には「オランダは必ず復活する。がんばれ」とのメッセージと紅茶一杯分の茶葉が入っていたそうです。さらに捕虜収容所に送る赤十字の救援物資2000万個全てにTWININGS社の紅茶1/4ポンド(約113g)が同梱されるなど、紅茶は戦う人々のみならずあらゆる立場の人々へ希望と慰めを届ける媒体となったのです。

一方、敵国となったドイツや占領下ヨーロッパでは、英国が世界中の茶葉を買い尽くした影響で紅茶の入手が極めて困難になり、ハーブ茶や代用茶(エルザッツ)で凌ぐしかありませんでした。実際、ナチス・ドイツ下の一般家庭ではミントやベリーの葉を乾燥させたハーブティーが「お茶」として供給され、ドイツ青年団はイラクサなど薬草の採集を奨励されたといいます。紅茶に限らず戦時下では様々な嗜好品が代用品に置き換えられましたが
、本物の紅茶を飲める英国民はある意味で恵まれていたと言えます。イギリスでは戦後もしばらく配給制が続き、紅茶は1952年になってようやく統制解除となりました。(他の配給品も含め全ての食品配給が終了したのは1954年)。

長い戦時を経て、紅茶は英国民の生活必需品としての地位をますます確固たるものにしたのです。 第二次世界大戦を通じ、人々は改めて紅茶の持つ精神的な力を実感しました。「お茶の一杯」は不安や疲労で張り詰めた神経を和らげ、爆撃におびえる市民に日常の温もりを取り戻させる効果がありました。事実、ロンドン大空襲の最中、「台所のティーポット、移動給茶車、即席の塹壕ストーブ缶――あらゆる場所で紅茶は大勢を元気づける慰め役だった」と当時を振り返る証言も残っています。身分の上下を超えて皆が茶をすする光景は国民の一体感を育み「紅茶こそイギリスらしさの象徴」とのイメージが決定的になったのです。

二度の世界大戦で培われた紅茶と共に耐え抜く文化は、戦後の英国社会にも深く刻み込まれ、紅茶は単なる嗜好品ではなく英国人の精神の支柱とも言える存在となったのです。

📊データでみるイギリスの紅茶配給制度

紅茶消費量
(英国内・千トン)
配給制の開始/強化
191460WWI開戦
191840WWI末期
1939100WWII開戦
194270最強化
194550WWII終戦
195090配給制終了
イギリスにおける紅茶消費量グラフ
イギリスにおける紅茶消費量グラフ

📉解説ポイント

  • WWI時(1914–1918):戦争による輸送制限と物資不足により、紅茶消費が急減。
  • WWII時(1939–1945):開戦前は100千トンに達するが、戦時中の配給制で段階的に縮小。
  • 1942年:配給制の「最強化期」であり、最低消費水準(70千トン)に。
  • 戦後(1950):復興に伴い紅茶消費が徐々に回復。

このデータは紅茶がどれほど国家管理下に置かれ、国民生活の必需品として制度化されていたかを裏づける重要な証拠となります。