聞く紅茶教室
講義時間:約12分
第75講 紅茶と物語世界(5)
5.舞台・映画・音楽における紅茶モチーフ
紅茶は、舞台や映画の中でも重要な役割を果たしてきました。
しかし、それは「飲み物」としてではありません。
むしろ、
「言葉の前に置かれる小道具」
として使われることが多いのです。
静かに湯気を立てるカップは、
沈黙を和らげ、
衝突をいったん止め、
場の空気を整える。
そんな役割を持っています。
観客に対しても、
「これは日常の延長なのだ」
と知らせる効果があります。
映画と紅茶
映画では、紅茶は「英国らしさ」を示す最も簡単な記号でもありました。
ティーカップを持つだけで、
「あ、この人は英国人だ」
と分かる。
それほど強い象徴性を持っていたのです。
演劇と紅茶
この構造が特に鮮明に現れる作品が、一九五三年の舞台劇『お茶と同情』です。
この作品では、紅茶が「理解」と「受容」の象徴として繰り返し登場します。
主人公の少年にとって、紅茶を差し出される瞬間は、
「裁かれる場」
ではなく、
「受け入れられる場」
なのです。
観客にとっても、それは対立をやわらげる時間として機能します。
つまり紅茶は、舞台上で、
言葉より先に感情を調整する装置
として働いているのです。
『不思議の国のアリス』と紅茶
この作品は映画、舞台など様々な形で表現されています。
『アリス・イン・ワンダーランド』の「狂ったティーパーティー」も、非常に象徴的です。
本来ティータイムとは、
秩序。
礼儀。
会話。
そうしたものを象徴する時間でした。
しかし、ティム・バートン版では、それが「狂気」へ反転されます。
紅茶はここで、
「秩序崩壊を可視化する舞台装置」
になっているのです。
ミュージカルと紅茶
ミュージカルでは、紅茶は「階級教育」の道具として描かれます。
『マイ・フェア・レディ』では、
カップの持ち方。
注ぐ順番。
砂糖とミルクの扱い。
そうした細かな仕草そのものが、
「上流階級らしさ」を学ぶ訓練として描かれています。
つまりティータイムとは、
「正しい英語」と同じように、
「正しい振る舞い」を身につける場でもあったのです。
歌謡曲と紅茶
そして日本では、紅茶は歌謡曲や少女文化の中で独特の意味を持つようになります。
ただし最初から「身近な飲み物」だったわけではありません。
紅茶はまず、
「憧れの飲み物」
として登場したのです。
1970年代の音楽と紅茶
一九七〇年代の歌謡曲では、喫茶店を舞台にした曲が数多く作られました。
しかし、その多くで中心だったのはコーヒーです。
コーヒーは、
都会。
孤独。
失恋。
夜。
そうしたものを象徴していました。
一方、「紅茶」という言葉がはっきり歌詞に登場するようになるのは、実はかなり遅い時代です。
たとえばガロの『学生街の喫茶店』では、
「訳もなく お茶を飲み 話したよ」
と歌われています。
しかし、ここでの「お茶」は、紅茶ともコーヒーとも明示されていません。
この時代に重要だったのは、飲み物そのものではなく、
「喫茶店で過ごす時間」
だったのです。
1980年代の音楽と紅茶
流れが変わるのは、一九八一年です。
大瀧詠一『カナリア諸島にて』では、
「薄く切ったオレンジを アイスティーに浮かべて」
という歌詞が登場します。
ここで紅茶は、
「都会的で洗練された余暇」
の象徴として描かれています。
しかも舞台は、すでに「喫茶店」ではなく、「リゾート」なのです。
同じ一九八一年には、柏原芳恵『ハロー・グッバイ』も大ヒットしました。
「紅茶のおいしい喫茶店」
という有名なフレーズによって、
ついに紅茶そのものが「情景の主役」になったのです。
ここで初めて、
「喫茶店=コーヒー」
というイメージが崩れ始めました。
紅茶で始まる別れの情景。
それが、日本の歌の中に定着していったのです。
くまのひとりごと
映画。
演劇。
ミュージカル。
様々な舞台で、
紅茶はその瞬間の、
雰囲気や空気を決めてきました。
日本の音楽でも、
コーヒーと対比されるように、
紅茶のポジションが、
作られてきたように感じます。
くまもかつては、
コーヒーばかり飲んでいました。
忙しく仕事をしていたころ、
くまはコーヒーを、
1日に1リットル以上、
飲んでいました。
紅茶は、
月に数回ほどだったと思います。
でも、
生き方に少しゆとりができてから、
不思議なほど自然に、
紅茶中心になっていきました。
だから、
舞台や音楽などで、
紅茶がコーヒーとは違った、
イメージを作ることを、
くまは実感しているのです。