聞く紅茶教室
講義時間:約11分
第40講 フェアトレードは、紅茶に倫理を取り戻した
ティーバッグの普及によって、紅茶は世界中で「簡単に飲める日用品」になっていきました。
けれども、その便利さの裏側で、少しずつ見えなくなっていったものがあります。
それは、「誰が紅茶を作っているのか」という問題でした。
どこの産地なのか。
どんな環境で働いているのか。
どれほどの賃金が支払われているのか。
大量消費の時代の紅茶は、そうした背景をあまり語らなくなっていきます。
スーパーで箱を買う。
ティーバッグを取り出す。
お湯を注ぐ。
そこには、「飲む人」の視点はあっても、「作る人」の姿はほとんど見えていませんでした。
しかし二十世紀の終わりごろから、その流れに変化が起き始めます。
人びとは、少しずつ問い始めたのです。
この紅茶は、どこから来たのか。
誰が作ったのか。
その人たちは、きちんと生活できているのか。
ここで広がっていくのが、「フェアトレード」という考え方でした。
フェアトレードとは、「公平な取引」という意味です。
ただ安く買うのではなく、生産者に適切な利益が届くようにしよう、という考え方です。
これは紅茶にとって、とても大きな意味を持っていました。
なぜなら紅茶には、長いあいだ、植民地支配の歴史が重なっていたからです。
十九世紀、紅茶は帝国によって広がりました。
巨大な農園。
低賃金労働。
植民地経済。
多くの人びとが、厳しい環境の中で茶葉を摘み続けていました。
そして、その構造の一部は、二十世紀になっても完全には消えていませんでした。
つまりフェアトレードは、単なる「新しい売り方」ではありません。
それは、「紅茶の歴史そのもの」を問い直す動きでもあったのです。
ここで紅茶は、もう一度「背景を持つ飲み物」になっていきます。
農園名。
標高。
栽培方法。
生産地域。
作り手の名前。
そうした情報が、再び語られるようになります。
これは、かつて大量消費の中で見えなくなっていたものを、もう一度取り戻そうとする流れでした。
そして興味深いのは、ここで紅茶に求められるものが変わっていったことです。
昔、人びとは紅茶に「帝国らしさ」を求めました。
その後は、「便利さ」を求めました。
けれどもフェアトレードの時代になると、人びとは「正しさ」を求め始めます。
この紅茶は、公平なのか。
環境を壊していないか。
働く人は守られているか。
つまり紅茶は、「おいしいかどうか」だけではなく、「どう作られているか」で選ばれる飲み物になっていったのです。
ここには、紅茶の大きな変化があります。
かつて紅茶は、帝国の富を支える商品でした。
しかしフェアトレード紅茶は、その逆を目指します。
つまり、「利益を一方的に奪う」のではなく、「利益を戻す」方向へ進もうとしたのです。
もちろん、それだけですべての問題が解決したわけではありません。
フェアトレードにも、さまざまな議論があります。
本当に十分な利益が届いているのか。
認証制度は機能しているのか。
ブランド化されていないか。
そうした問いは今も続いています。
けれども、それでも重要なのは、「誰が作っているのか」が再び語られるようになったことでした。
大量消費の時代、紅茶は「匿名の商品」になっていました。
しかしフェアトレードは、その匿名性を少しずつ崩していきます。
そこには、生産者がいる。
労働がある。
歴史がある。
つまり紅茶は再び、「人間の顔が見える飲み物」になろうとしていたのです。
そして二十一世紀に入ると、紅茶はさらに多くの意味へ分かれていきます。
毎日飲む紅茶。
特別な日に飲む紅茶。
体験としての紅茶。
価値観を表す紅茶。
紅茶は、ひとつの意味を持つ飲み物ではなくなっていきました。
次に見ていくのは、「国民飲料だった紅茶」が、どのように「選ばれる紅茶」へ変わっていったのか、その最後の変化です。
くまのひとりごと
紅茶の歴史は
ある意味
搾取の歴史でした。
しかし、
フェアトレードという考え方が
消費者に生産者と向き合うことを
教えてくれました。
そして消費者と生産者が
共にあるようにすることが
良い紅茶を生み出していくのだと
くまは思うのです。